Newsweek日本版の特集「世界を虜にするポケモンGO」を読んだ


 

 ポケモンGOは、プレーヤーの日常をゲームの舞台にする。そしていつも見慣れた風景を、小さなモンスター(ただし怖くない)でいっぱいにする。あるとき筆者は、ブルックリンのプロスペクトパークで、茂みの中からポケモンが顔を出すのを待っていた。毎日横切るその公園が、魔法の森のように感じられたものだ。

 

 『ニューズウィーク日本版』8月2日号の特集「世界を虜にするポケモンGO」を読んだ。Kindle Unlimitedで読み放題ということで、普段は読まない雑誌にも思わず手が伸びてしまった格好。

 複数記者の視点から『ポケモンGO』を12ページにわたって論じる内容となっており、リリース後まもなくの特集ながらきれいにまとまっている印象。すでに各ネットメディアで話されているテーマと重複する部分もあるものの、ゲームの未プレイヤーにも易しい解説となっています。

 

拡張現実における「聖域」の立ち位置

 「戦争をやめて、ポケモンGO!(MAKE POKÉMON, NOT WAR)」と題された記事では、テロやクーデターといった凄惨な事件が世界中で相次ぐなか降って湧いた「平和」な話題として、『ポケモンGO』の流行を歓迎している。あわせて、ゲームでありながらプレイヤーを屋外へと誘い出し、街の新たな魅力を発見させてくれる点も “うれしい驚きだった” 、と。

 一方では、リリースから数日後には問題視され話題となった、ゲームをプレイする「場所」の是非に関しても言及している。アウシュビッツ博物館にアーリントン国立墓地など、広く「聖域」とみなされている場所でゲームを遊ぶことが「不謹慎」ではないか、という問題だ。

 当初の報道では、「実際に現地で問題が起きており、マナーの悪いプレイヤーも少なからず存在している以上、聖域でのプレイは不適切だ」とする意見が多く見られたように思う*1。しかし、本記事の記者は「『聖域』はつくるべきじゃない」とし、次のように書いている。

 

 その怒りは理解できる。だが共感はできない。むしろこうした場所こそ、現実を拡張する価値があるのではないか。そこは政治家や革命家や預言者が世界を支配しようとした結果だ。日本から来た小さなモンスターたちが世界を支配したらどうなるか、見てみてもいいのではないか。

 いずれ銃撃事件や爆破事件のあった場所でも、ポケモンGOがプレーされることになるだろう。それを犠牲者の魂の冒涜だと批判する人もいるかもしれない。その心情を理解することは必要だ。だがそこに人間の独創性や打たれ強さ、あるいは悲しい経験をプラスのパワーに変える力を見いだすことも、同じくらい重要なのではないだろうか。

 

 当事者ではない、他人事ゆえの身勝手な主張だと受け取ることもできるが、筆者は続けて、 “このゲームには、現実を微調整する力がある” とも書いている。

 事実として存在する悲劇を冒涜するつもりはなく、「拡張現実」という新しい力が作用することで、確定された悲劇のベクトルをポジティブに捉え直すことが、 “微調整” することができるのではないかーーという可能性への、淡い期待。筆者の主張は、そうも読めるのではないだろうか。

 もちろん、見方によっては「どこでも自由にゲームをプレイしたい人の自分勝手な理由づけに過ぎない」と断じることもできる。そもそも、その場所本来の利用者でない人が大挙すれば、マナーが良し悪しに関係なく、ただ人数が多いだけでも迷惑になりうる。そこで規制されたからと言って、ゲームのプレイヤーが「無関係な大勢」である以上、反論するのは難しい。

 

 結果的に、多くの「聖域」ではゲームのプレイが制限・除外され、日本国内でも平和記念公園*2をはじめとして同様の流れが定着しつつある。「拡張現実」の可能性に期待を寄せる気持ちはわかるが、それを最初からすべての場所で実践する必要もないように思う。

 プレイが制限された「聖域」の外へ目を向けてみると、被災地で観光集客を図るべく『ポケモンGO』の利用に各県が名乗りを上げる*3など、積極的に拡張現実を受け入れようとする地域も現れつつある。具体的にはどういった活動になるのか、それ以前にゲームの流行がいつまで続くのかという問題もあるが、新たな試みがすぐに受け入れられるわけでもなし。いちプレイヤーとしてはゲームを存分に楽しみつつ、現実が面白楽しく、ゆっくりと “拡張” されていくことを期待したい。

 当然、マナーやモラルは守りつつ。『Ingress』プレイの際もそうだったように、公園では他の来園者の邪魔にならないよう気をつけつつ、観光地では積極的にお金を落とすようにし、神社を訪れたらお賽銭を入れる――など。拡張前の “現実” が疎かになってしまっては、元も子もない。

 

「カワイイ」は正義……?

 翻って、「日本発カワイイ文化の功罪(THE CULT OF CUTENESS)」と題する記事では『ポケモンGO』の魅力と中毒性について、日本の “カワイイ” 文化の視点から紐解いている。

 目が大きく、体に対して頭も大きく、全体的に赤ん坊を想起させるようなフォルムの “カワイイ” キャラクターを探しまわるという行為は、それだけで本能を刺激し、快楽ホルモンを分泌するものだ。屋内でネコ動画を見るよりも健康的で、体を動かし、他者と交流することによって、鬱・不安神経症の軽減に結びついたという報告もある、と書いている。

 

かわいいものに夢中になるのは人類共通の本能だとしても、それを文化にしたのは日本だけだ。実は伝統的な日本文化はカワイイとは正反対で、不屈の精神や自制心を良しとする。それに対する反発やそこから逃げ出したいという欲求がカワイイ文化に結晶した。

 

 ところが他方で、筆者は “カワイイ” に魅了された活動が “逃避の旅” となりかねないことへの懸念も示している。実際に体を動かすことで得られるのはメリットだけでなく、過剰な快楽ホルモンの分泌によって合理的な思考にブレーキをかけるなど、デメリットもあるのではないか、と。

 事実、リリース当初から少なからず『ポケモンGO』に関連した事故も報道されている。米カリフォルニア州では20代男性が崖から転落し*4、グアテマラではポケモンを探して他人の住宅に侵入した少年が射殺される*5という痛ましい事件も起きている。 “カワイイ” に限った話ではないが、何かに夢中であったがための事故の多くは、周囲に注意を払っていれば防げたかもしれないものだ。

 

 忘れてはならないのは、多幸感をもたらすかわいいグッズは麻薬と同じで現実逃避の手段になること。歴史の岐路に立たされた私たちにポケモンGOは素晴らしい逃避の旅を提供してくれる。

 ドナルド・トランプが大統領になる可能性やイギリスのEU離脱の影響、テロの増加……ポケモンGOはすべてを忘れさせてくれる。だが残念ながら、ハッピーな気分は長くは続かない。ゲームが終われば、そこには厄介で複雑な現実が待っている。

 

 『ポケモンGO』がどれだけ魅力的でエキサイティングなゲームだろうと、結局のところそれは現実の延長線上にあり、一時の逃避先にしかならない。なればこそ、大好きなポケモンと共に夢を見つつも、同時にその画面の先に映る現実にも、意識を向けていたい。

 かわいいモンスターに魅了されながら、世代によってはノスタルジーに浸り楽しむこともできる『ポケモンGO』。それはきっと、複雑怪奇な現実から逃れてホッとできるゲームでありながら、そんな現実にモンスターを召喚し、面白楽しく “拡張” してくれる存在でもある。そして何より、画面の向こうに夢と現実、2つの世界を同時に見ながら、屋外へと足を運ぶのは楽しい。風といっしょにまた、歩きだそう。

 

 

関連記事