「日記の書き方」の大前提は「感想」を書かないこと『日記の魔力』


僕は今、2種類の「日記」を書いている。

ひとつは、言うまでもなくこの「ブログ」。

訪れた飲食店の記録に、読んだ本の要約と感想、おすすめのアニメや音楽といった趣味の話。さらには、生活の中でふと気になったことをざっくばらんに書き連ねるなど、「嗜好」と「思考」のアウトプット場所としての「日記」だ。

もうひとつは、常に持ち歩いている「手帳」。

主にスケジュール帳として使いつつ、日割りされたページにはその日の行動と会った人を記録している。記憶力が残念すぎるゆえに始めた試みで、最初の2年はなかなか定着しなかったが、直近の2年で記録の頻度も増え、今年で3年目になる。

さらに細かく考えるなら、Evernoteに記録しているTwitterのツイート群もある意味で「日記」と呼べるだろうし、手帳とは別に、あれこれと思考を書き殴るため持ち歩いているメモ帳も似たようなものかもしれない。いずれにせよ、いくつかに分けて “日” 々を “記” 録する作業は、楽しい。

しかし、実際にそれら「日記」を有効活用できているかと言うと──正直、怪しい。メモやら殴り書きやらは増えていく一方で、書くだけ書いて実践できていないアイデアや目標も、同じく増え続けている。ついでに積ん読も膨大な数になりつつあるし、マジで「精神と時の部屋」が欲しい。

そんな折、ふと他の人の書いた「日記論」を読みたくなり手に取ったのが、本書『日記の魔力』です。

序盤は精神論が多く、「日記を書けば必ず人生は良い方向へと動き出す!」と言わんばかりのヨイショっぷりに少し引き気味だったものの、読み終えてみれば「おもしろかった!」と断言できる内容でした。

これから日記を書こうという人はもちろん、すでに日記を書いている人が、それをさらに生かすためのヒントを得ることのできる1冊と言えるのではないかしら。

 

日記の「書き方」ではなく「使い方」

まず最初に確認しておきたいのが、本書は「日記の書き方」が書かれたハウツー本ではないという点だ。本文中では何度か筆者の日記を実例として取り上げることはあれど、具体的に「こういった文体で、記録するのはこういうこと」という、マニュアルはほとんど記されていない。

筆者の語り口調はむしろ哲学的であり、独白じみている。日記の意義を「人生」にまで拡張して俯瞰し、 “書くという作業はすべて「感動」と「愛」にもとづいている” などとも論じるなど、一部を切り取ると途端に胡散臭くなる。……多分、本書の版元に抱いている印象の影響もある気はするけれど。

しかしそれら言説も、1冊の本として読み終えたうえで改めて考えてみると、大多数は納得のいくものでございました。執筆当時、すでに60を超える御歳の筆者が語る人生訓は興味深く、30年以上も日記を書き続けてきた彼の「書く」ことへの姿勢も、いたく共感できるものだったので。

そもそも、「日記」には固定のフォーマットがない。何を書くか、あるいは書かないか。どの媒体を用いて、いかにして続けるかという助言はできても、万人に決まって勧められる “王道” は存在しないはずだ。あるのは、小学生でも知っている “にっき” のテンプレートだけ。

なればこそ、本書で筆者が論じているのは「書き方」にあらず。30年間、試行錯誤しながら見出してきた筆者なりの日記の「意義」であり、「魅力」であり、それを楽しく続けることによって生活を好転させるための「使い方」です。──だいじょうぶ、うさんくさくないよ。

「感想」は書かない!行動記録から「問い」を導き出す、日記の効用

日記に「感想」を書く必要はない。自分がその日、取った行動を客観的に記録すればそれだけで充分なのだ。 

本書で書かれている方法論らしい方法論と言えば、序章で述べられているこの一文にほぼ集約される。本文で語られているのは、いかにして「行動記録」を積み重ね、どのようにそれを生活に生かしていくのかという考え方。それが、筆者なりの思想と経験談でもって紐解かれていくだけだ。

言ってしまえばそれだけの内容なのに、どうして自分が本書を「おもしろい」と感じたのか。そこには当然、幅広い知見を持った筆者の文章の魅力──学術的な事例が提示されることによる知的好奇心の刺激と、予備校講師ならではの経験談──が生きていることは間違いない。

でも、それだけじゃない。まだ期間としては筆者の10分の1程度に過ぎない、言わば「日記初心者」である自分にも共感できる内容であり、しかも、自身がなんとなく良いと感じて実践していた日記の「書き方」についてその利点を言語化してくれる、とても気づきの多い1冊だったのです。

 多くの人は夜寝る前に、その日を振り返り日記を綴る。

 だが私は、日記はあえて翌日の朝に書くようにしている。

 夜に日記を書くと、どうしても過去に焦点がいってしまうからだ。

 それに対し、一日の始めに日記を書けば、昨日という日を踏まえたうえで、今日これからの人生をどう生きるかという視点が生まれる。

例えば、この部分。思い返してみれば僕自身、日記がうまく続かなかった2年間と、安定して続けられている直近の2年間を比べると、この「翌日に書く」という変化があったのです。

なぜ「寝る前の日記」が続かないのかと言えば、その晩のうちに書かなかったら、その後にはもう書くチャンスがなくなってしまうから。飲み会で酔っ払っただとか、普段よりも動きまわって疲れたなどの生理現象には逆らえず、一度寝てしまったら、翌日に書く気は失せている。

加えて、筆者も書いているように、夜はどうもダウナーな気分のことが多く、どうしても「振り返り」に目がいってしまう。行動記録以上に、後悔の感情を書き連ねることが多くなり、前向きに何かを表明することが難しい。そう考えると、『ハム太郎』のロコちゃんって、鋼メンタルだよな……。

その点、翌日ならば程よく感情がリセットされているため、客観的に「昨日の自分」を省みて記録することができる。──昨日はこういう失敗があった。じゃあ今日は、それを踏まえてこうしよう──と。翌日になってようやく、未来は “もっと楽しくなる” と、前を向けるのだ。へけっ!

ついでに、日記を書くタイミングを逃したらそれっきりである「寝る前の日記」に対して、翌日なら、隙間時間を見て取り組むこともできる。朝イチは難しくとも、午前中の休憩時間とか、昼休みとか。僕自身、朝イチに書くことは稀で、だいたいは日中の休憩時間に書いている。

 つまり、内省は書くだけムダなのだ。

 そんなことを書くのではなく、具体的な計画を立てていくほうが効果ははるかに高い。「具体」ということの中心は、実は「肯定」することにあるのだ。

そして筆者曰く、「振り返り」は「内省」と同義ではない。どれだけ失敗を積み重ね、それを記録しても、結局は「愚痴」以上のものにならない場合が多い。その場では心から「反省しよう」と考え書いても、具体的な行動が伴わなければ何の意味もない。

大切なのは「内省」よりも「具体」。そのために行動記録を客観的な視点から「日記」として書き出すことによって、あとで読み返したときに「これが悪かったんじゃないか?」と「問い」を立てることができる。そこで「じゃあ次は具体的にこうしよう」と、実生活に生きてくるわけだ。

日記によって客観化された自己を、改めて「読む」ことで主観化する

本書を読んでいて個人的に為になったのが、日記を「読む」視点の話だ。この2年間でなんだかんだと記録はたまっているが、どこかでそれを読み返し、有効活用することはできていない。

それならばと筆者が勧めているのが、主に自分を形作っているジャンルの記述のみを抜き出し、別ファイルとしてまとめた “圧縮版” を作ること。それをたびたび読み返すことによって、自分の思考や趣味の変遷を短時間で追いかけることができる……という寸法だ。

 私の場合は、人生のテーマが「思想」なので『私の思想史』としているが、事業をしている人なら「私の仕事」でもいいし、料理の好きな主婦なら「私の料理修業史」でもいいだろう。ほかにも、「私の投資歴」「節約マネー帳」「ガーデニング日誌」「昆虫の飼育録」「ダイエット挑戦記」など、今いちばん関心をもっていることを中心に抽出していくのだ。

 要するに自分にとって意味のあるものであれば、テーマは何でもいい。

これはやってみたら絶対におもしろいだろうことが想像に難くないし、何よりも自分の為になる。──というか、ちょうど最近、ブログの記事のカテゴリーを整理するべく読み返していたところだったので、間違いなくそうだという実感がある。おもしろい。

そうすることで、日記に書かれた出来事が「自分ごと」として蘇ってくる。日記を「書く」ことによって客観視した自分を、「読む」ことで再び取り戻すこの過程を、筆者は「主観化」という表現でまとめていました。改ざんされた記憶でない、過去の自分と再見するための作業。

 書くという作業はすべて「感動」と「愛」にもとづいている。

 日記もその読者である未来の自分への「愛」を込めて書かなければいけないと、私は思っている。

 愛を込めるといってもそれは難しいことではない。

 特別な文章力が必要なわけでもない。

 未来の自分が「ここに書いてあってよかった」と思ってくれるようなことをていねいに、正直に書いていけばいいだけである。

──とは言え、そんなに難しく考えずとも、「まずは楽しく書いてみようぜ!」と思うのも事実。必要に迫られて始めるとつまらなく感じてしまう人もいるでしょうし、もっと気楽に書いてもいいと思うのですよ。

少なくとも、小中学校時代に書いた文集をゲラゲラ笑って読める人なら、日記は楽しめるはず。僕が日記を書いているのにだって、結局はそういう一因もありますし。過去の自分の未熟さに身悶え、未来の自分が「クソワロタ」と言えるよう、今は好き勝手に書き殴っている。それだけ。

 自分の書いた日記ほどおもしろい読み物はない。

 それは何度読んでも新たな発見があるからだ。

まずは、この1冊から。よかったら一緒に、「日記」という名の黒歴史(良い意味で)を重ねてまいりましょう。

 

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