「とりあえず3年」は正しい?最短距離を走らず、回り道を迷走したっていい


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 4月──「春」というこの季節は、根っこがネガティブ精神の持ち主である己からすると、とても「眩しい」時期でございます。

 進学に就職、あるいは独立。一区切りの決断と、新たな想いを胸に、誰もが前向きな一歩を踏み出す季節。たとえ賛否両論あれど、どこかの誰かが表明した「決意」は尊重されるべきものだと思います。逆に “表明” する側からすれば、胸踊らせながらもどこか不安な第一歩に対して、別視点からの助言をもらえるのはありがたいことでしょう。

 そんな「眩しい」風景を目にしながら、ちょいと考えたことをつらつらと。

 

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ひとたび決断したら、ずっと前を見て走り続ければならない

 ──なんてことはない。

  どこぞの会社に就職したにせよ、新卒のまま起業や独立に踏み切ったにせよ、ともかく一心不乱に前だけを見て、日々の学問や仕事に全力で取り組む必要はないんじゃないかと思っております。

 

 そりゃあもちろん、ある程度は努力もしたほうがいいでしょう。石の上にも三年、辛抱する木に金がなる、待てば海路の日和あり……などとまあ仰りますとおり、いつだって物事の最初には「忍耐」が求められる。

 先人に学び、己が身を粉にして事に当たり、守破離の過程を経て研鑽を積んだ者にのみ、得られるモノがある。──富? 名声? 圧倒的成長? いやいや、そのすべてかもしれない。

 そもそも「何事もやってみなければわからない」のである。何も知らぬうち、学ばぬがうちに逃げ出すのは、軽率かつ無思慮な行為であり、臆病者の所業である。勉学にしろ労働にしろ、その楽しさ・魅力・やりがいを知らずして、ポイって今日を投げ出すなぞ、言語道断なのだ。ノーポイッ!

 そう、 “一所にして懸命” に取り組むことによってこそ、得られるものがあるのが世の常だと。今はまだ自分の力が小さくとも、諦めなければチリ積モですよと、皆が口々に叫ぶのです。そんなことしちゃ、もったいない。

 

 けれどそれも、実のところは「時と場合」だとも思うのです。いくら “イ=シノウエニ=モサン=ネン” などという呪文を唱えられようと、それが本人の望まぬところであるのなら、無理に “3年間行動不能” などという状態異常に甘んじる必要はないでしょう。

 そも、それっぽい諺で言い包めようったって、そうはイカんぜよ。いつから日本で使われるようになったかは知りませぬが、その表現が定着しただろう当時と現在じゃ、社会情勢も個人の事情も異なっているんじゃなかろうか。

 というか、その比喩で言うのなら、前提として座っている “石” だって各々に違って然るべき。必ずしも座り心地が安定しているとは限らないし、常にアホみたいに熱せられた高温の石があったっておかしくない。3年間も焼き土下座状態とか、それこそ生き地獄っ・・・! 死んじまう・・・!

 

 きっとこの呪文は、他者からバッドステータスとしてかけられるものではない。自分がやりたいこと、成し遂げたいことを実現するべく奮起するための、ステータスアップあるいは防御魔法でござる。FFで言うなら、バーサク? ポケモンで言うなら、しんぴのまもり?

 時には状態異常が転じて、耐性がつくことで前向きに作用することも少なからずあるでしょうが、すべてがその限りでもなし。少しでも「3年後にはこうなっていたい」という希望があるならばともかく、ただ無為に過ごすだけならば――それこそ、「決意」するのは自分自身です。

 

最短距離を走る必要はなく、回り道でもどこかにはたどり着く

 そうした “3年” とはまた別の意味で、学問を修めて社会に出てからは、とにかく「時間」が何よりも注視されるような印象が強い。いち早く仕事を覚え、スピード出世を目標にし、あらゆるスキルを身につけるべく入門書や通信教育にお金をかけ、最短での修得を目指す。

 効率重視の結果ありき。しばらく勤めているうちにそのスピード感と価値観に慣れ、いつも万全の状態で最短距離を走ることができる──そんな、超人みたいな人も決して少数派ではない。寄り道は「時間の無駄」であり、目標に向かって突っ走ることを是とする彼ら。

 

 しかし一方では、それもまた、誰もが同様に走れるスポーツでないことは言うに及ばず。短距離走 or 長距離走、早熟 or 大器晩成といった区別ではなく、前提として「最短で大通りを走るのはちょっと……」と考えている人や、そもそも、別の競技をしている人がいても不思議じゃない。

 同じ土俵に立っている以上、暫定的に目指している場所は同じであるはず。企業であれば、全社員間で共有している経営目標のような。けれど、何もメンバー全員で同じアプローチをかけるわけでもなく、細かな方法は各々に異なることもあるんじゃなかろうか。部署別、あるいは個人別に。

 

 共通の目標を見定められているうちはまだいい。でも、ひとたび「目指す場所」が異なってしまったら、その集団から外れてしまうのも自然な流れ。それだけでなく、特に集団の統一が重要視されがちな企業文化において、道中でのやり方が合わずに辞めるという人も珍しくない。

 全員に「最短距離」を課せば、そりゃあリタイアする者も出てくる。その目標のためには、全員が国道を走ってちゃダメなんすよ……脇道からのアプローチも必要になるんすよ……なんて、方針の違いであぶれてしまうこともあると思う。僕はついてゆけない。余裕がない世界のスピードに。

 

 ちょいと話は変わりますが、この「最短距離」って結構なクセモノだと思うんですよ。と言うのも、何事にも効率とスピードを重視した結果、「どのような過程を経て、その方法論が定着したか」を理解しないまま、なんとなくでテンプレに追従する形になってしまうんじゃないかと。

 どんな物事──もちろん仕事でも、先人から教わる「型」を真似ることから最初は始める。そのなかで「なぜ、そのようにするのか」を丁寧に教わるか、もしくは自分で気づければ問題はない。

 だけど、何もわからないままルーチン的に続けていると、それが後に響く “しこり” になったり、思わぬ失敗につながったりすることもありえる。「こうしたほうがいいんじゃないか」と提案しただけで怒られたり、それに納得がいかず、理由の説明を求めてもはぐらかされたり。

 

 結果、「誰も理由を知らないが、なぜかそれがまかり通っている」という謎の現象が可視化される。──これって、なかなかに怖いことなんじゃないかしら。

 いや、そりゃあ「うまくいっているなら問題ない」というのも仰るとおりですし、機能しているうちは問題ないのですが……もし、外部の環境が変わったり、一部要素が機能不全を起こしたりしたときに、対応できなくなるんじゃないかという不安があるのでは……。

 

 ──とまあ、話があっちゃこっちゃ飛んでおりますが、要するにアレです。

 

 最初のうちは “最短距離” に乗っかって、一心不乱に走るのもいい。けれど、全力疾走に疲れてしまったり、どこかで違和感を覚えたり、ちょっと寄り道したいなと思ったりしたときには、ふらっと道を外れるのもひとつの選択肢ですよ、と。そういう話が書きたかったのでした。

 ぶっちゃけ、うまく走れるのなら、走るに越したことはないのです。そのように“できる”人は素直にすごいと思うし、尊敬しているし、羨ましいと感じることすらある。最短距離をビュンビュン飛ばして、うまく走れている人は、本当に本当に楽しそうだから。

 

 でも一方では、「炭屋の丁稚は黒くなる」じゃないけれど、 “黒くなる” ことを極端に強く押し付けてくる集団も珍しくはなく、それが合わないと感じる人もまた、少なくないと思うのです。

 そんなの言うまでもないことかもしれませんが、ひとたび “黒く” 染まれば、その判断すらできなくなる場合も往々にしてあるはず。なればこそ「回り道」という選択肢の存在を、意識しておくのも悪くないのではないかしら。

 たとえ世間的な「眩しさ」からは遠かろうと、回り道したからこそ見られる風景も、きっとある。明日へと焦らないでね? ゆっくり遊ぼう?(よろしくね)

 

 

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