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ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

口コミなどの「他者の評価」が伴わない購買活動、してる?

インターネット インターネット-ネットリテラシー

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 自慢じゃないけれど、日常的に「インターネット」に接している時間は長いほうだと思ってる。数々のニュースサイト&アプリをチェックし、はてなブックマークのホッテントリを巡回し、大量のブログを購読している。……いや、マジで自慢にならないっすね、これ。

 そうやって大量の情報に触れていれば当然、過去にどこかで読んだような話題だったり、まったく参考にならない内容だったり、他人同士が罵り合っているだけのやり取りだったり――のどうしようもない情報も、当然のように目に入ってくる。

 けれどそれ以上に、有益な情報だって少なくない。ネットで最新の飲食店を知り、話題の映画を知り、マイナーだけど魅力的な作品を知る。それらは心躍る情報であると同時に、どこかの誰かが自信を持って「おすすめ」してくれた、「当たり」である可能性も高いのです。

 しかしその一方では、そういった誰かの「おすすめ」ばかりを摂取するようになってしまい、偶然性に頼った「思わぬ出会い」が軽視されている印象もある今日この頃。他人のレビューを気にして、世間的な評価を当てにして……そこに、ロマンはあるのだろうか。

 

「他者の評価」ありきのコンテンツ消費

 我が身を振り返って考えてみると、日常的にネットの情報を参考にして商品を購入すること、コンテンツを消費することが、驚くほど当たり前になっていることに気づかされた。実際、このブログのカテゴリーからを記事を見ただけでも、それが一目瞭然なんですよね。

 「本」を買う際には、Amazonや読書メーターの感想を参考にするのが基本。少し方向性は違うかもしれないけれど、「Kindleストアでセール価格だったから」という理由で購入した電子書籍も枚挙にいとまがない。

 「映画」を観る前にも、ネット上のレビューサイトを参考に。昨年の『マッドマックス』や『キングスマン』なども、SNSでの盛り上がり、あるいは感想ブログをきっかけに観に行ったようなものなので、そこには明らかに「他人のおすすめ」の存在がある。ガルパンはいいぞ。

 「グルメ」ネタは言うまでもなく、食べログの影響力が強い。基本的には前情報なし、街中を散策しながら、気になったお店に目星を付けるようにはしているものの、入店するか否かを決定するのは「☆」の数によりけり。やたらと評価が低いと、そりゃあ足踏みもする。

 全部が全部、「誰かのおすすめ」を理由に購入・消費しているとは断言できない。けれど、個人ブログの口コミにせよ、旬の話題を扱うニュースサイトにせよ、何らかの「他者の評価」が結構な割合で介在していることは間違いない――と同時に、自分も誰かに影響を与えている……のかも。

 

「はずれ」を回避する安全策と、嫌でも聞こえてくる他者評価

 もちろん、なにも「誰かの意見を参考にするのは良くない」と言いたいわけではございません。というかむしろ、個人の持つ自由な時間が限られ、それと比較にならないほど膨大かつ多種多彩なコンテンツが日々生み出されている現状を鑑みると、何かの指針なしにモノを買うのは難しい。

 例えば、音楽プレイヤー用のイヤホンを買うべく、ヨドバシだかビックだかに足を運んだとする。イヤホンコーナーには複数メーカーの商品が所狭しと並べられ、価格も仕様もさまざま。説明を読んでも似たり寄ったりだし、どれを買えばいいんじゃーい! となるのも自然な流れでござる。

 そんなとき、ちょちょいと検索すれば出てくる詳しい人のレビューは、比較検討の材料になる。そこそこ時間があるのなら、具体的な仕様と価格を擦りあわせて決定することもできるし、時間がない人でも、とりあえずレビューサイトの売れ筋商品を買う、といった決断がしやすくなる。

 

 このような意味で、「他者の評価」は購買活動の指針となるし、その分野の知識がない人にとっては逆になくてはならない情報だとも言えます。自分が知っている分野のものだったら、ある程度は知識と感覚で決めやすい部分もあるのでしょうが。

 ところが他方では、そういった「“参考” が重視されすぎている一面もあるんじゃないか」という意見も、たびたび耳にするもの。極端な話、イヤホンなんてどれを買おうが使えれば問題がないし、そもそも違いがわからないのに、あれこれと悩む必要もないんじゃないか……と。

本筋とは関係ないけど、自分はずっとPHILIPS同シリーズのイヤホンを選択しております。コスパ重視。

 要するに、「こんなはずじゃなかった」を避けること、何が何でも「はずれ」を引くことを回避せんとする意思が強く働き、ネット上の情報が重宝されすぎているように見える――という話。ちょっとどこで読んだのかは失念してしまったのですが、何度かブログでも目にした気がする。

 これは自然な流れなのかもしれないけれど、それによって顕在化している問題もあるとは思うのです。サクラやステマの横行だとか、フォロワーをはじめとする “数字” を持つ人の発言力の増大とか、周囲の評価に迎合することによる “褒め称えるべきもの” と “こき下ろしていいもの” の二極化とか。

 

  どれもネット以前からあった流れではあるのでしょうが、それがより可視化されやすくなっているように見えるんですよね。望まずとも、たくさんの「他人の声」が自然と目に入ってしまう状況。特に、極端な神格化or誹謗中傷に走っている人の「声」は、刺激的で大きすぎる。

 自分でフィルターをかけられればいいものの、SNS全盛の今はそれも難しい。少し論点は異なりそうだけど、「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」の話もそう。こちらはリア友とのやり取りですが、これをネット上に置き換えても、少なからず傷つく人はいるのではないかしら。

 

偶然性が導く「大当たり」を探して

 とにもかくにも「はずれ」を引かないように、ネットで情報を検索し、誰もが間違いないと豪語する話題の飲食店を知り、混雑を避けて予約して、実際に食べたらやっぱりおいしく、料理写真をInstagramやFacebookに投稿して大満足。――うむ、最高だ。……いや、最高か?

 そりゃあ言うまでもなく、適当にその辺のお店に入って大失敗するとか、冒険せずにファストフードで済ませるとかよりも、 “充実” しているのは間違いないとも思う。圧倒的ご満悦感。約束された勝利のランチ。――けれど、そこに、ロマンはあるのかしら?

 

 「話題の○○!」みたいな文章をブログやら何やらで書いていて、自分でもたまーに思うのですが。人気のコンテンツを調べ、乗っかり、消費して、また次の時事ネタへ向かう……これって、ふと振り返ってみると、ものっそい「流れ作業」っぽいんですよね。コンベア感、ある。

 もちろん、満足ではあるのです。おいしい。たのしい。おもしろい。よかった。だけど、常に「当たり」を引き続けていると徐々に不感症っぽくなってくるというか、別の方向でバランスを取りたくなっちゃうタチでもありまして。お約束、王道、テンプレばかりでは、飽きてくる。

 

 「はずれ」を避けるとは、言うなれば「やっぱり今日も正解だった」の繰り返しなわけで。常に “やっぱり当たり” だと、なんだか物足りなくなってくる……と書くと、どうも贅沢な悩みっぽくも見えますが。

 一口に言えば、「良い意味での予想外」が欲しい。そしてそのためには、過剰な情報は邪魔になるケースが多い。口コミを頼るにしても、「おいしい」とだけ聞いて行ってみたら、味よりも見た目が異様な料理が出てきたとか、そのくらいが素敵。前情報なしで『がっこうぐらし!』を見せよう。 

 

 ――ということを考えていて思い出したのが、東浩紀さんの『弱いつながり』(商品リンク:Amazon.co.jp: 弱いつながり 検索ワードを探す旅で読んだ、以下の指摘。

最適なパッケージを吟味したうえで選ぶ人生、それは、ネット書店のリコメンデーションにしたがって本を買い続ける行為です。外れはないかもしれませんが、出会いもありません。リアル書店でなんとなく目についたから買う、そういう偶然性に身を曝したほうがよほど読書経験は豊かになります。

東浩紀著『弱いつながり』より

 ここでは「読書」に、本文では「旅」に例えて論じていますが、誰かによってパッケージ化されたコンテンツからは、新たな発見や出会いは生まれづらい。一方、自分の感覚で、なんとなく手に取ったものから得られる経験は、たとえそれが失敗でも、血肉となりやすいのではないか、と。

 ぶっちゃけ、各々の視点の問題でしかない、という一面もあるとは思う。観察眼や思考力の優れた人、もしくはぶっ飛んで好奇心旺盛な人なんかは、それが誰かの推薦だろうが流行だろうが、自分なりの “目” でもってなんでも血肉にしてしまうし、本人もむちゃくちゃ楽しんでる。つよい。

 

 結局のところ、自分が満足しているのならばモーマンタイ。ただ、やたらめったらと「評判」を気にしすぎてしまうのも、それはどうなのかなーと思ったので。

 誰かに「おすすめ」するにせよ、やっぱり自分の言葉で、自分が心底惚れ込んだものを語りたいじゃないっすか。生まれてくる前に死んでいるなんて嫌じゃないっすか。埋まるなら、誰かに勧められた墓穴より、自分で掘った穴がいい。そんな感じ。

 

 

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