川上量生監修『ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』要約まとめ


 

 全15巻で構成される『角川インターネット講座』シリーズ。その第4巻である『ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』を読みました。川上量生さんによる監修の下、序章を含めると全8章・計8人の筆者によって、「ネットカルチャー」について論じられた1冊です。

 本書には、ネットでもおなじみのライターやジャーナリストをはじめ、大学教授に評論家といった多彩な筆者陣が参加。同じ話題でも各々が別視点で説明しているため、多様性の権化とも言えるネット文化を多面的に捉えることのできる、“参考書”的な立ち位置の本だとも言えそうです。

 章ごとに筆者が異なる、しかも各章がそこそこ濃ゆい内容となっていることもあり、本書を読むにあたっては、章ごとに分けて別々に感想記事を書くようにしておりました。そして先日、ようやっと最後まで読み終えた格好。

 そんなわけでここでは、各章の要約と感想を振り返りがてら、ざっくりとまとめてみようと思いまする。章ごとに内容のバラつきはありますが、やはり読んで字のごとく「ネットカルチャー」に関心がある人ならば、興味深く読める1冊となっているのではないかしら。

 

目次

 

序章:川上量生『ネットがつくった文化圏』

今回、この巻で振り返りたいインターネットの歴史とは、ビジネス的側面でも技術的側面でもなく、これまでないがしろにされてきたインターネットの文化的側面である。それはすなわちインターネットを現実の一部あるいは現実そのものとして生活をしてきたネットユーザー視点の歴史であり、同時に、インターネットに関わる技術やサービスの変遷ではなく、インターネットに住む人々の文化や思想の変遷の歴史となるだろう。

 このような導入から始まる本書は、主にインターネットにおける「文化」を各々の筆者の視点から切り取り、紐解くための1冊だ。その序章たる本章では、現代のネット文化を考えるにあたって、どのような現状があるのかを改めて整理している。

 その焦点となるのが、「ネット原住民」「ネット新住民」という区分だ。ウェブ上には、リアルで居場所がなく、古くからネットに親しんできた「原住民」に対して、パソコンやスマホの普及によって入植してきた「新住民」の存在がある。そしてネット上に存在する軋轢のほとんどは、この「ネット原住民」と「ネット新住民」の文化的衝突として説明できる――と、断言している。

 問題となる「文化」の違いとしては、具体的に「リア充」「炎上」「コピー」「嫌儲」という、4つの要素を挙げている。これらキーワードについて川上さんなりの考えをざっくりと記しつつ、詳細な解説は続く第1章以降の書き手に委ねるというのが、序章の要点だ。

 この本を読み始めて最初に感じたのが、「本書は『ネット新住民』にこそ読んでほしい」ということ。川上さん曰く「原住民の数は減りつつある」一方で、現実世界からネットに逃げ込んでくる人は今なお少なくない。

 現実で生きづらさを感じ、ネットの存在に触れ、原住民のマインドを受け継いだ彼ら「ネット新原住民」こそが、インターネット上では大きな影響力を持つ。ゆえに、その価値観を知らなければネットではうまく立ち回れないし、無用な衝突を引き起こしかねない、と。……特にブログを書いている人ならば、心当たりがあるのではないかしら。

どんなにネットに現実世界が流れ込んでも、リア充勢力が多数派になっても、ネット原住民の影響力が低下することはない。なぜなら、彼らは暇だからだ。会社員が仕事をしている間も、リア充がデートをしている間も、彼らはありあまる時間をもつがゆえに、ずっとネットにへばりついていることができる。豊かな日本を生んだニートの親世代の経済状況が安泰で、ニートが彼らに依存し続けられるうちは、このインターネットの社会構造は変わらない。

 

1章:ばるぼら『日本のネットカルチャー史』

 第1章の筆者は、“ネットワーカー”こと、ライターのばるぼらさん。『日本のネットカルチャー史』と題して、このおよそ20年間を駆け足で振り返る内容となっている。

 おそらく本章は、現在進行形でネット上で何らかの活動・情報発信をしている人ならば、おもしろく読めるのではないかと思う。昔のネットを知る人はもちろん、この数年以内にネットに親しむようになり、過去の“ネット文化”は知らないが興味のあるような人も。

 ここで書かれているのは、テキストサイト、個人ニュースサイト、掲示板、ブログ、FLASHアニメ――など、知っている人は知っている、知らない人は知らないであろう、けれど間違いなく今日に至るまで地続きとなっている、「ネットカルチャー」の歴史だ。

 さらにその前後には、そもそもの根源思想であるハッカー・ヒッピー・DIY文化の説明と、ニコニコ動画などのプラットフォームによって加速した二次創作文化に、コピペブログやバイラルメディアの問題点まで、取り上げられているトピックは非常に幅広い。詳細な内容までは語られていないものの、現在までの「ネットカルチャー」の文脈を再確認するにあたっては、間違いなく意義のある文章となっている。

 

2章:佐々木俊尚『ネットの言論空間形成』

 第2章は、Twitterでもおなじみのジャーナリスト・佐々木俊尚さんによる「ネット論壇」の話。いわゆる“書き手”と“読み手”の問題、ブログ炎上に対する考え方、ユーザーの質とはなんぞや――といった話題が展開されている。

 筆者はまず、“日本のインターネットに本格的に言論空間が立ち上がったのは、2ちゃんねるが最初である”と断定したうえで、「ネット論壇」とは、批判やどうしようもない誹謗中傷も引っくるめた「ノイズ」ありきの、フラットな空間であると説明している。

 おそらくネットで情報発信している人にとっては耳の痛い、しかし避けては通れない問題であるため、ブログ運営者にこそ読んでほしい章。特に昨今、真摯な批判も誹謗も中傷もすべて引っ括めて、「アンチハスルー」と切り捨てることから巻き起こっている軋轢も少なからず目に入るので。

 「俺の主張を理解できない人はバカだ」といった主張は、見方によってはネットそのものの有り様を否定するような物言いだとも受け取れる。フラットで自由なネットの言論空間を全否定する前に、まず一度は自分で考え、スタンスを明確にしておきたい問題であるように思う。

 

3章:小野ほりでい『リア充対非リアの不毛な戦い』

 「トゥギャッチ」や「オモコロ」などのウェブメディアでもおなじみ、小野ほりでいさんが第3章の執筆者。エリコちゃんやミカ先輩がいないことに違和感を覚えつつも、「文字オンリーだと、小野ほりでいさんの説明はこうなるのか……」と、別の意味で興味深い文章でした。

 本章はタイトルのとおり、ほとんど自称されることのない「リア充」に対して、自らを「非リア」と称する数多くの人たちの心性から、「リア充・非リア」の構造と問題を明らかにした内容となっている。過去に話題になった、“繊細チンピラ”を別視点から説明した内容、とも。

数か月恋人がいないだけでモテないと嘆けば一度も恋人ができたことのない人間に羨まれ、恋人ができたことがないと嘆けば異性と会話したことすらない人間に贅沢だと恨まれ、「では誰だと嘆く資格があるのか」と掘り下げていけば人ならざるものに行き着くだろう。

 筆者によれば、「リア充」という単語が示すところの「充実しているか否か」は個々人の主観によって判断されるため、そもそも「リア充」か「非リア」かという区別・定義は困難であるという。ゆえに、“生きている以上はどんな人間であっても誰かにとっての「リア充」”だと。

 一方で「非リア」は、集団から溢れでてしまった人の寄る辺であり、「個性的でありたい」という願いであり、他者とのコミュニケーションが苦手な人のためのコミュニケーションツールであるとも書いている。この辺は個人的にも心当たりのある内容であり、読んでいておもしろい部分でもあった。「非リア」の問題点を指摘しつつも、その効用も挙げている格好。ネットスラングのひとつに過ぎない言葉ではあるものの、その意味するところを再考するのは重要だと思う。

 

4章:荻上チキ『炎上の構造』

 第4章の筆者は、2007年に単著『ウェブ炎上』を出版している評論家・荻上チキさん。ネットにおける「炎上」という言葉が誕生してから今年で11年、最近の使われ方を見ると、どうもその意味が変化しつつあるようにも感じる「炎上」の話。

 そんな「炎上」の構造を紐解いたのが本章であり、その前提――炎上の条件のひとつとして挙げられているのが、「多数の反感」だ。不特定多数のネットユーザーのコメント群によって“炎”として認知され、炎上現象へと発展する。しかし実のところそれは「部分的多数」でしかない、とも。

ひとつの炎上事例にも、様々な動機を持った個人が参加する。本気で憤りを示すものもいれば、煽られた文言に反応しただけの者もいる。普段から抱いていた政治的憎悪をぶつける者もいれば、ビジネスのために反感を利用する者も、ただ数分間の笑えるネタとしてのみ便乗的に消費する者もいる。炎上事例のたびに、異なる意図をもった個人が、その都度集合を形成し、離散していく。それらを持続的な人格としてとらえることはできない。

 「炎上」に参加するのは匿名の不特定多数であり、各々の動機もさまざまだ。積極的に燃やしにかかる人もいれば、単に思ったことを端的に記しただけ、という人がいてもおかしくはない。しかし一方では、統率者も一貫した理念もない以上、ひとたび燃え上がれば大多数から批判を受けているように感じられるし、個人がどうにかするのは難しい。

 また、筆者はそんな「炎上」が渦中の人間にもたらすペナルティについて、“その裁きの程度は、法の下において平等にではなく、情の下に差別されながら偶発的に決定される”と書いている。これは、言い得て妙だと思った。

 実際に、炎上においては法律に抵触する問題行為が指摘されるケースもある。そうなれば必然、当人は然るべき裁きを受けることになるだろう。にも関わらず、一度やらかした相手には何をしてもいいと考え、不特定多数が“情の下”に差別し、フルボッコにする構造が「炎上」にはある、と。

 弱者に対して大勢が一方的な攻撃を加えるこの構造は「いじめ」や「リンチ」を想起させるものであり、問題視されても文句は言えない。もちろん、そこには非難されるべき問題行動があり、個人の発言に対して批判が出てきてこそ健全なネット論壇が形成されるという見方もある。ただ、度が過ぎればそれも暴力だ。匿名の個人の憂さ晴らしではなく、問題は問題として淡々と処理されるような構造が必要とされているのかもしれない。

 

5章:伊藤昌亮『祭りと血祭り 炎上の社会学』

 続く第5章は、『祭りと血祭り 炎上の社会学』。筆者は、インターネットに端を発する集団行動などを研究されている、成蹊大学文学部現代社会学科教授の伊藤昌亮さん。

 通常、広い意味での「炎上」の中でも、にぎやかな盛り上がりを伴う祝賀的なものが特に「祭り」と呼ばれ、一方で誹謗中傷によるバッシングを伴う攻撃的なものがより限定的な意味で「炎上」と呼ばれる。(中略)
 ここで前者を「祭り」と呼ぶとすれば、それとの対比から後者を「血祭り」と呼ぶこともできるのではないだろうか。なぜならそこでは常に誰かが一斉攻撃を受け、集中砲火を浴び、衆目の面前で血祭りに上げられることになるからだ。

 本章の論点としては、「炎上」の中でも好意的な感情が行き交う「祭り」と、ひたすらに攻撃的な「血祭り」との2つに現象を分類している点が挙げられる。具体的には宗教的祭儀としての「祭り」の考え方を引用し、日常と非日常を行き来するひとつの方法として「祭り」による集団的沸騰がもたらされることで、自分が所属している集団を再認識することができるというものだ。

 言い換えれば、「炎上」現象が起こることによって、インターネット上における特定の集団が可視化されるということ。ある対象に大勢の感情が向かう「祭り」によって、不特定の集団が「社会」として認識されるという意味で、この指摘は間違っていないように思う。

 しかしその一方では、もはや2ch的な「祭り」は影を潜め、「炎上」と言えばネガティブで避けるべき現象として扱われている現在、それを「血祭り」と再定義することに意味はあるのか……といった部分では少々、自分としては納得のいかない言説も見られました。

 

6章:山田奨治『日本文化にみるコピペのルール』

 第6章の筆者は、知的所有権の研究をしている情報学者・山田奨治さん。『日本文化にみるコピペのルール』と題し、日本文化におけるコピペの原点として和歌の技法である「本歌取」の存在を提起し、考察を加えた内容となっている。

 本歌取とは、“和歌・連歌などで、古歌の語句・趣向などを取り入れて作歌すること”。察しの良い読者はすぐに気づくように、現代で言う「n次創作」の文化圏、パロディ的な視点を過去の日本文化まで遡り、当てはめるように論じる格好だ。読んでいて非常におもしろかった。

本歌取が技法として機能する条件、それは本歌があるのかないのか、どの歌が本歌なのかを、歌を鑑賞するひとが知っていることである。過去に作られた膨大な和歌の蓄えがあり、それが和歌を楽しむ者に共有され、それをアレンジして新しい作品を付け加えていく、そういう共同作業が本歌取という営みなのだ。

 こういった「パロディ」の考え方には共通して、それが「限定的な文化圏でのローカルルール」であるという前提がある。和歌ならこう、浮世絵ならこう、といった「パロディの要件」が存在し、それを集団内で相互に把握していなければ「パクり」として槍玉に挙げられかねない。

 ところが、あらゆる文化圏の人間が集まるインターネットにおいては、時にはその「ローカルルール」が把握されないままに作品が発表された結果、パロディ的な文脈を知らない人から「コピペ」だとして炎上しかねないリスクがある。特にデザイン、トレース、アートの分野においては、それが顕著だ。

 自由であるがゆえに「暗黙の了解」は共有されづらく、感覚的にコメントできてしまうがために自分が知らない世界の問題にも不用意に首を突っ込んでしまう。ネット上で無用な衝突を避けるためにも、自分が知っている世界・知らない世界の境界と、付き合い方は意識しておきたい。

 

7章:仲正昌樹『リア充/非リア充の構造』

 最終章、第7章の筆者は、政治思想史、社会哲学を取り扱う哲学者・仲正昌樹さん。章テーマは『リア充/非リア充の構造』ということで、その言葉の意味とカテゴライズの視点からまとめていた3章に対して、本章では哲学的な観点とコミュニティ論から“構造”を紐解く内容となっている。

 本章ではまず、この言葉について、“「リアルな生活」の空間と、「ネット上の生活」の空間がはっきり分かれている”という条件の必要性を指摘している。

かなりの時間をネットで費やしているおかげで、〝ネット上だけで認知している他者〟が結構いる、あるいは、自分自身がそういう匿名の人格になっている、というような人にとってのみ、「リア充/非リア充」の区別は意味を成すのである。ネットをあまり使わない人、頻繁に使っていても〝ネット上の仮想人格〟の動向に興味などない人、そうしたことに興味をもつほどネットにはまっていない人にとっては、「リア充/非リア充」は無意味な言葉である。

 「リア充/非リア充」の区別とは、不特定多数の「非リア」の人が匿名のコミュニティで自虐的に用いるものであり、リアルのみを生きる人間が語る「リア充」とは、その言葉の本来の用法を借りたパロディに過ぎない。流行語大賞の結果を見るに、既に“パロディ”に食われた印象はあるが。

 さらに筆者は、ネット上で匿名のコミュニティを形成し、何かあったらすぐにそこへ逃げ込む大衆は「身体性」を欠いているとして問題視しているが、これは一長一短であるようにも思う。というのも、SNSの隆盛によって促進されたネットの緩いつながりは、同じ趣味を持つ仲間同士のリアルでの関係性の構築・発展にも一役買っているからだ。

 他方では当然、ネットの情報に惑わされて身体性を失いつつある人も少なくないように思うが、それはどちらかと言えばリテラシーの問題だ。コミュニティ的な面で問題視するとすれば、やはりもっと大枠の「原住民」と「新住民」の対立に帰結するのではないかしら。

 

まとめ

 序章部分でも書きましたが、本書を勧めるならば、まずはやはり「ネット新住民」の方に読んでいただきたいところ。これまでにネットを介して情報発信や交流をしてきた人なら、少なからず「ネット(原住)民」との衝突があったのではないかと思います。

 その中では、理不尽に思えたかもしれない批判や非難、やたらと方法や書き方にこだわる物言いなどにモヤモヤを覚え、「自由にやらせてくれよ!」と反発した経験のある人もいるのではないでしょうか。全部が全部……とは言いませんが、本書を読めば彼らのその考えの一端がわかるはず。

 もちろん、周りの声は全く気にせずに、最低限のルールだけを守っていれば問題ないというのは事実でしょう。ただ、何をするにもその前提となる「文化」や「文脈」は知っておいて損はないし、そのほうがうまく立ち回れることは間違いない。それは断言できます。

 いくらネットが普及し一般化したからと言っても、その根底に流れる「ネットカルチャー」と価値観は、黎明期に原住民の交流の中で自然発生し、脈々と受け継がれてきたものと大差ないはず。外からは“郷に入っては郷に従え”の視点が必要であり、でもかと言って内側からは、いつまでも「おまいらのネット」が存在しているとも限らない。みんな等しく「ネット民」として、互いの文化を尊重しながら交流できる環境があれば……というのは、さすがに理想論な気がしなくもありませんが。仲良くやろうず。

 

 

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