「大人」と「社会人」の定義と、転勤族にとっての成人式


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はやく人間に成りた〜い

世間的には成人の日らしい。ニュースを見れば、厳粛に進められる式があり、晴れやかな装いがあり、ぶっ飛んだ問題行動もあった様子。ある種の風物詩的なイベントともなりつつある「成人式」は、僕にとっては無縁の催しでござった。

お偉いさんの話を聞いて祝っていただく「式」とはその実、新成人にとっては「同窓会」としての意味合いが強いものだと思う。小・中学校時代、共に過ごした同窓の友人と再会し、飲めるようになったお酒を片手にあれこれと語り合う場。そりゃあ楽しくないはずがない。

僕自身は引っ越しの多い家庭で育ったため、同窓どころか知人レベルの知り合いもいない土地に住んでいた20歳当時、もちろん成人式には参加しなかった。夕暮れ時、なんとか中学時代の友達と連絡を付けて合流したものの、どこか浮いているような印象は否めなかった。

お酒を飲み、お互いの近況を話し合い、とにもかくにも「今」を楽しむ新成人。過去のいじめや恋愛話、黒歴史とフクザツな関係は記憶の彼方に過ぎ去り、ガハハと笑いながらお酒を飲んでふざけあう。その場にいた人は自分も含め、誰もがみんな最高に楽しんでいた……はず。

そう、その場にいた人はきっと、誰もが等しくその空間を満喫していたのでしょう。そもそも誘われなかった人、事情があって来れなかった人、過去の関係性は完全に断ち切った人など、いない人の心中は知りようがないし、考える余地もない。

なんだかんだで2次会、3次会と参加し、友人の家で酒を飲みながら微妙にイチャつきだした男女を置いて帰る、その道すがら。──ぼおっと夜空を見上げながら、強制的に「大人」にされた僕は、そんなことを考えていたのではなかっただろうか。

 

「大人」を知らないまま、「社会人」になる

たびたびブログでも書いてきたけれど、「大人」ほど曖昧模糊としたマジックワードもないと思う。それこそ「普通」や「常識」といった言葉と同じくらい、それを発する個々人によって意味が変わってくるシロモノなんじゃないかと。

 

「いい年して」「いい大人が」というのは要するに、「あなたはそういう年齢なのだから、それに見合った立ちふるまいをしなさい」という指摘であり、たまに押し付けでもあるもの。

「いい年して」「いい大人が」という表現について思うこと - ぐるりみち。

 

「心身が発達して一人前になった人」*1という辞書の表現を考慮しうたうえで雑にまとめるならば、「心の有り様が外部から視認できない以上、見た目と法律的な定義で『大人』と括られているに過ぎない」といった感じかしら。

極論、自分でそうだと認識して名乗れば、アナタも今すぐ立派なオトナだよっ☆ ……みたいな。名乗ればなれるって、なんだか「ライター」とか「プロブロガー」みたいっすね。 見た目的な意味で言えば、僕なんて中学時点で大学生と勘違いされてましたしおすし(血涙)。

そんな「大人」の定義もわからぬまま、20歳を超えればとりあえず成人になってしまう。それならば、これからその意味を考えながら、自分も子供の頃に憧れた立派な大人になろう……と決意を新たにした数年後、すぐにまた新たな肩書きが半強制的に貼られてしまう。「社会人」だ。

 

思うに、誰かが他の人に語る「社会人」って、「俺(or企業or社会)にとっての理想通りに動いてくれる人」のことであるように見える。

 

大学から見た、理想の就活生。
人事から見た、理想の新入社員候補。
上司から見た、理想の部下。
企業から見た、理想の社員。
社会から見た、理想の労働者。

 

誰もが別々の、“ぼくのかんがえたさいきょーのしゃかいじん”を周囲に求めようとするため、「社会人」がゲシュタルト崩壊しそうな勢いすらある。“しゃかい”って、なんだっけ……。

無職になり改めて感じる「社会人」という言葉の曖昧さ - ぐるりみち。

 

これまた、いまだによくわからない言葉でござる。一応は経済産業省によって「社会人基礎力」*2という名目でまとめており、そこそこ納得のできる内容ではあるものの、それが職場で言われる「社会人らしくあれ!」と共通するかと言われると……首を傾げざるを得ない。

「大人になれ!」と言われた20歳からわずか2年後、すぐに「社会人としての自覚を持て!」という新規ミッションが振りかかる。高卒で就職している人の場合はその順序が逆になっていることから、両者はまったく別の課題であるようにも思えるけれど……実体はやはりよくわからん。

 

10年前のボクは今のボクを見て 何を思うのだろうか

悶々と考えていてひとつ思いついたのが、「社会人」は外部評価で、「大人」は自己評価なんじゃなかろうか、ということ。文字どおり “社会” を基準に個人を評価する前者に対して、後者の比較対象は過去の自分自身。 “社会の中に在る人” であり、 “小人” に対しての “大人” である、と。

というのも普段僕らが気にする「大人」って、だいたいが外部から見た「大人になれ!」という叱責であったり、「大人っぽ〜い」という評価であったりすると思うのです。他人からみた「評価」に過ぎず、自分が「大人だからこうする!」と意識して行動するような機会はほとんどない。

しかし一方では、「大人」をテーマにした物語作品や歌謡曲を考えてみると、そこにあるのは「昔は子供だった自分(キャラクター)」との比較であり、むしろ外部からの強要は立ち向かうべき敵のような存在として描かれているような印象すらある。きみはまだ〜シンデレラっさ〜♪

 

10年前のボクに 今のボクからは何を言ってやれるんだろう
無言でたたずみ 冴えない顔した ボクは擦り切れた大人

どこで無くしたのかわからない 映るものすべて楽しめたあの感覚を

R-25/cosMo@暴走P より

 

周囲の大人が口々に叫び、押し付けてくる “オトナ” は息苦しい。それが何者であるか、自分で「これだ!」と思っても、次から次へと “オトナ” に必要とされる要素が課題として振りかかる。

それならば、大人になれない、途上の、中途半端な人間でもいいから、せめて「子供だった自分」よりは前へ進めているように立ち振る舞うしかないのではないかと、ふと思った。その道すがら、出会った「子供」が自分を「大人」たらしめてくれることもあるでしょうし。

そんなときには──水をあげるその役目を、果たせばいいんだろう?

 

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