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ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

【寄稿】起こりえぬ未来について

ブログ-寄稿 ブログ

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未来はどうなるのだろう。

 

最近、そんな風に考えることはありますか。いつか期待される科学や技術についてではありません。自分の未来についての話です。

 

20代の現在の自分に至るまで。定点で観測すれば、何歳もの自分がたくさんの未来を想像していたように思います。職業を夢みたこともありましたし、中学や高校、大学に進学したころの自分について考えたこともあります。家族や友達の何十年後、自分が抱いた感情や記憶の将来を想像することもありました。

 

パン屋さんや保育士になりたいという作文を書いた時。

卒業証書入りの筒を持ち、友だちと会話をしている時。

旅先の景色や、読書中に出会う言葉に感銘を受けた時。

誕生日を祝ってくれる家族と、大好物を食べている時。

 

いつかそうなれるだろうか。いつまでも仲良しでいられるだろうか。

大事な風景や言葉だと胸にしまいつづけるのだろうか。この日常は、この人は、この状況は、いつか忘れがたい記憶の一部になるのだろうか。

 

大切に感じているけど、未来の自分はそう思い続けていないかもしれない。興味がなくなったり、忘れたくなったりするのかな。その時の自分は、何をしているのだろう。どうしてそうなったのだろう。

 

憧れを抱いたから。不安を覚えたから。幸せを感じたから。理由は様々。各年代の自分たちはそれぞれの感性で将来を思い描き、未来について考えていました。

いくつかは既に現実の身に起こり、またいくつかは取捨選択され既に「起こりえぬ未来」となって、懐かしい色に染まっています。

 

そうやってこれまで考えた未来を振り返った際、ふと「未来の自分はどうなっているのだろう」と考えることが少なくなってきたと気がつきました。

 

多感な時期を過ぎたからなのか。自分の生き方・考え方がブレなくなったからなのか。未来という場所に来たからなのか。今を主体的に生きているからなのか。

良いことなのか悪いことなのかもよくわかりません。

 

でも、未来を考えさせる人生の岐路の数が、自分の中で少なくなってきている。そんな気がします。

 

特に今の自分に大きな不満があるわけではありません。

でも「どうなっていくんだろう」という感覚は期待感にも近く、また予測可能な日々は割愛可能な日々と等しい気もします。

 

無茶をして自分の人生を波乱じみたものにしたいわけではないです。でも、そういった自分の進路の再定義、現状への疑問はまだ持ち合わせる必要はあるのではないか。

 

未来はどうなるのだろう。いつか「そんなことを考えていたなあ」と将来の自分に思わせる自分でいたい。

 

そんなことを引き続き思うのです。皆さんは、いかがですか。

 


 

この記事は、ぼくオレid:bokuoreさんからご寄稿いただきました。

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