音の奔流に飲み込まれる熱狂と、8年ぶりにすごい一体感を感じた話


 高校時代に、和太鼓をやっていた。

 ちょうど自分が入学したときに生徒会主導の企画として立ち上げられたらしい、和太鼓の学内団体。何かしらの“高校デビュー”をしたいと考えていた自分は、一も二もなく「やります!」と教室のど真ん中で手を挙げていた。

 当初は三日坊主で終わるかと思いきや、なんやかんやで3年間、気づけば卒業までフルで参加していた。結果、自分の青春は汗と木と男の臭さだけで終わったが、後悔はしていない。たぶん。というか、今や居酒屋の席の隅っこでATフィールドを展開しているのが基本スタイルなのに、すげえな、当時の僕。

 そんな男まみれな青春も、ひとつの思い出として風化していた今日このごろ。「バンドやろうぜ!」と叫んでいたブロガーさんたちにお声がけいただき、久しぶりにスタジオでドンドコ叩いてきました。……やべえ、むっっっっっちゃたのしい。

 

「和太鼓」って、文化系?体育会系?

 いつも決まって、学生時代の和太鼓活動について話そうとするときに思うのが、「『和太鼓部』は、文化部なのか否か」ということ。

 

 「楽器を使って音を奏でる」という一点で見れば、まあいわゆる「文化的活動」に属すものなんじゃないかとも思う。加えて、伝統“芸能”とも称されることから、芸術・宗教・娯楽的な要素をはらんだ分野であることも間違いない……はず?

 しかし一方では、プロの奏者の出で立ちを見れば、その大多数が筋肉モリモリマッチョマンの変態という「肉体派」の分野でもある。よく“体育会系文化部”と呼ばれる吹奏楽部所属のクラスメイトに言わせても、「運動量ちがいすぎワロタ」との話。イベントで運搬を手伝ってもらったときも、「太鼓ってなんであんなに重いの?バカなの?」と責められた記憶が。すまぬ……。

 

 そういった経験もあり、とりあえずは吹奏楽部に代表される「体育会系文化部」の肩書きをお借りしつつ説明しているわけですが。……だいたい合ってるよね?

 でも今となって考えてみれば、「音楽」の多くは、全身を使って音を奏でる“体育会系”の活動なのだとも思うわけで。ピアノだって、ギターだって、ベースだって、ドラムだって、リコーダーだって、和太鼓だって、みんなみんな生きているんだ筋肉なんだ。

 

記憶と感覚だけを頼りに、全力で肉体を殺しにかかる

 というわけで、そんな元体育会系文化部に所属していた自分が、見た目もキャラもその魂も根っからの「文化系」だと自他共に認めるワタクシが、先日、実に8年ぶりに和太鼓をドンドコやってきたわけですが。

 

 ……とりあえず、現状報告からさせていただきますと、右と左、両方の肩から腕にかけての筋肉が全滅しております。スタジオで叩いてから二度の夜が明けましたが、今なお、筋肉痛なう。

 腕だけならばまだ良かったものの、太くて長い、手に慣れない棒を全力で数時間にわたってシゴいていたおかげで、昨日はタイピングする気力が起きないくらいに指も若干やられていた模様。腕は言うに及ばず、握力の低下も実感する、アラサーのワシ。体力テストしなきゃ……。ドレミファソラシドに合わせて体育館を往復しなくちゃ……。

 

 そんなこんなで、「オデノカラダハボドボドダ!」と叫ばずにはいられない反動を喰らった割に、当日、太鼓をドンドコ叩いているときはもう、楽しくて仕方がなかったんですよね。

 実際に8年ぶりに和太鼓と向き合ってみると、意外にも身体がいろいろと覚えているらしく、「あーこんなリズムあったなー」と腕が動いてくれた。――それがまず、びっくり。

 腕が動いてリズムを打てば、身体も太鼓を叩く格好へと体位を変えて、すんなりと“叩き方”を思い出す。身体が動けば、リズムに合わせた“振り付け”も想起され、気づけば勝手に腕が動く。過去に覚えた曲をすべて思い出すには至らなかったけれど、要所要所はしっかりと体にインプットされていたみたい。

 

 ところがどっこい。いくら人間のハードディスク容量が膨大で、ちょろっと検索をかければ必要なファイルが見つかるとは言っても、それが現行の“ガワ”に合うとは限らない。

 デスクワークのため、コンパクトにデフラグされたマイボデーに、突然の肉体労働は過剰な負荷をかけるものでしかないのでござる。「動いた……動いたよ!」と本体の起動に感動したのも束の間、無理した代償は、筋肉痛と、連休の活動時間として支払われたのでありました。ひえー!

 

脳みそを空っぽにして、環境に最適化する

 とは言え、なんだかんだで身体は正直でござる。早々に「もうむりぽ」と音を上げたものの、それでもやっぱり、和太鼓をドンドコ叩いているときはむちゃくちゃ楽しかった。

 音楽に関しては詳しくないので、専門用語でどのように言うのかはわからないけれど、和太鼓も他の打楽器よろしく、一定のリズムを延々と繰り返す曲なんかもあったりするんですよ。途中途中で奏者が変わったり、振り付けのバリエーションがあったりもするけれど。

 

 そのような楽曲の練習にあたっては、何分、何十分とひたすら同じリズムを繰り返すこともしばしば。複数の太鼓と複数の奏者でもって、お互いに“遊び”も入れ、アイコンタクトを取りながら無限ループ。

 叩き始めてしばらくすると全身の感覚が薄れ始め、自分と他の人の叩いている音と音との境界が曖昧になり、いろいろな意味で麻痺して脳汁ドバドバ状態になる――その瞬間がたまらなく好きだった。完全に「太鼓叩きマシーン」となって、いつまでも叩いていられるような錯覚を覚える感じ。すごい一体感を感じる。

 

 それに近い状態を、久しぶりに叩いたこのときにも感じることができた。ひたすら目の前の太鼓に向かって、奏でる音は違えど、他の楽器と混じりあった音の奔流に身を任せて、ひたすらソイヤでドッコイショでワッショイする感じ。ちょうたのしい。

 ……実際は身体が追っつかず、すぐにくたばったけれど。まだ当時の感覚が残っているのが、音楽を楽しめることが、純粋に嬉しかったのです。身体は覚えているし、自分から発せられる音は変わらないし。足りないのは、筋肉とその他。これが、オッサンの限界か……。

 

 何はともあれ、久しぶりに和太鼓をドンドコズンチャカポコタンスッポンポーンと楽しく叩くことができたので、誘っていただき感謝感激でございました。和太鼓はスタジオのものだけれど、8年ぶりに握った汗くさい自分のバチからは、青春のかほりがした。

 

 そして、がんばれ、ぼくのきんにく。
 筋肉センセーションを巻き起こせ。

 

 

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