「ミニマリズム」という毒を以て「消費」という毒を制する『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』


 

 読みました。今年の上半期から7月頃にかけてまで大盛り上がりだった、「ミニマリスト」のお話。もう何周か遅れではありますが、本書『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』の無料お試し版を読んだので、ざっくりと感想と私見をば。

 

「お金」や「消費」に縛られた人にとっての天啓

 たびたび目に入る「ミニマリスト」を名乗る人の記事を読んできて、それでもなお意味がよくわからなかったこの言葉。“無料お試し版”ということで、その説明のすべてを読んだわけではありませんが、なんとなーくわかったかも。たぶん。きっと。おそらく。

 

ぼくが思うミニマリストは、ただ他人の目線だけを気にした「欲しい」モノでなく、自分が本当に「必要」なモノがわかっている人。大事なものが何かわかっていて、それ以外を「減らす」人のことだ。

 

 「ミニマリスト」という一単語だけに注目した場合、その意味をはっきりと説明しているのは、この一文であるように読めました。“ぼくが思うミニマリスト”という前置きはあるものの、後の文章でも類似の表現が何度も登場するので、本書の核心となる部分なのではないかと。

 この言説に倣うなら、やたらめったらとモノを減らした結果、「布団とパソコンしかねえ!」という状態になった殺風景な部屋も、一面的には「ミニマリズム」ではあるものの、それが究極というわけではない、と。その人にとっての「最小限」を突き詰めた結果ならばともかく、「少なければ少ないほど良い」わけではないと、文中でも書かれておりましたので。

 本書の第1章で語られるのは、「モノを減らしたらこんなにも幸せになりました!」という筆者の生活の変化と、モノに縛られて生きることの息苦しさ、そして、ミニマリズムを実践することの素晴らしさ。

 

かつてのぼくのようにみじめで、自分を誰かと比べてばかりの人、つまり自分のことを不幸だと思っている人にはモノから一度離れてみることが、とにかくおすすめだ。最初からモノに執着がない人や、モノのカオスの中から宝物を見つけられる天才はいる。だけど、ぼくが考えたいのは、「普通」の人が、もっと「普通」の幸せを感じられるような在り方だ。誰しもが幸せになりたいと願っている。だが、そう願って手にしたモノは、ほんのわずかの間しかぼくたちを幸せにしてくれない。

 

 ここで語られている「ミニマリスト」という言葉の定義や、それによって得られる恩恵や価値観の変化は、断片的に読むのであれば納得のいく、共感できる言説であるように感じられました。やっぱり、流行に流されて無駄なモノが増えるのはよろしくない。

 ──ただ、失礼を承知で言わせてもらうと、冒頭の「はじめに」の文章を読んだだけでも、とにっかく「幸せ」という単語が繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、恐ろしいほどに繰り返し使われていることで、ちょっとした恐怖を覚えるくらいでした(※個人の印象です)

 

 いや、見方を変えれば、それだけ筆者の価値観が前向きに激変したことを示す文章として、インパクトはこの上ないとも思うのです。

 でも、続く第1章で登場するのが「ミニマリストになる前の不幸な自分の1日」と「ミニマリストになったら幸せすぎてヤバい自分の1日」の対比であるために、まるで“ちょっと怪しい系の勧誘”であるような読後感を覚えてしまう人もいるんじゃないかと。僕だけかも?

 

 とは言え、別の視点から見てみれば、無用なモノに囲まれて息苦しい生活を続けている人にとっては、このくらいの衝撃と説得力がなければ、生活スタイルを変えようという発想には至らないから……とも考えられます。

 数十年にわたって染み付いた「お金」や「消費」の価値観をリセットするには、「ミニマリスト」という劇薬・解毒剤の存在が必要なのではないかと。そういった意味で、「“もうモノは必要ない”んですよ」という本書は、彼らにとって天啓のようなものなのかもしれません。

 

ミニマリストって、“アレ”のことじゃね?

ミニマリストとは、 「本当に自分に必要なモノがわかっている人」 「大事なもののために減らす人」 だと、ぼくは考えている。

 

 ここで、改めて本文中で語られている「ミニマリストの定義」を確認してみましょう。この2つの条件、ものっそい既視感があるというか、個人的には「これって、“彼ら”のことじゃね?」と思うんですが……。

 

 おっと失敬。“彼ら”じゃないっすね。むしろ“俺ら”であり、“おまいら”ですね。

 ──そうです、広義での「オタク」です。

 

 

 「オタクの定義とはなんぞや」を説明しようとすると長くなる……というか説明できないので割愛しますが。

 けれど、アニメにせよゲームにせよ鉄道にせよ軍事にせよカメラにせよお笑いにせよ何にせよ、等しく「何かに夢中になっている人たち」という意味でここでは取り上げております。……つまり、拙者はブログオタクということでござるかwwwおうふwwww

 

 “夢中になっている”ということは、言い換えれば、先ほどの定義「本当に自分に必要なモノがわかっている人」と言えなくもない自分の大好きなモノを把握し、良し悪しを理解し、自身の価値観に従って生活する人(ちょっと苦しいかも)

 で、それ以外は我関せず。流行のドラマやテレビ番組を知らないアニオタがいる一方で、アニメに無関心な鉄オタもいる。好きなモノ以外は切り捨てて、自分の内からわき上がる嗜好と志向、欲望に赴くままに行動する「大事なもののために減らす人」 でもある。休日とかお金とか体力とか、他にもいろいろと“減らしている”気もしますが!

 

 ただし、そんな「オタク」たちの多くは、圧倒的に「消費者」でもあるんですよね。“大事なもののために減らす”ということは、「大事なモノは際限なく増やす」ということでもある。

 その点は確かに、「ミニマリスト」の定義とは異なるかもしれません。“本当に自分に必要なモノ”のハードルが一部ジャンルに限りむちゃくちゃ低いため、モノはめっさ増える。僕も一時期は、アニメもゲームも好きだけどフィギュアやグッズの類はまったく買わない一方で、CDには数百枚単位で購入していましたしおすし。

 

 話を戻すと、「ミニマリスト」を目指すということは、「ミニマリストオタク」を目指すということ……なのかも? それまで、好きかどうかも怪しい不要な流行に乗っかり続けていた人が、「ミニマリスト」という価値観に“夢中になる”ことで、一度すべてをリセットする感じ。

 そう考えると、ずっと周囲に振り回され、情報の海に溺れ、自分の興味関心に気づくことができなかった人の目を覚ます“魔法”として、「ミニマリズム」という考え方は効果的なのかもしれない。「それ、本当に大切なモノ?」と改めて自分に問いかける作業は、意味のあるものなんじゃないかとも思います。

 

 でも、一点だけ思ったのが、「ミニマリズム」は一時的なドーピングのようなものでしかないんじゃないか、ということ。

 「お金」や「消費」という既存の“価値観”に固執していた人が、今度は「ミニマリズム」という別の“価値観”に縛られてしまうケースも、往々にしてあるのではないかと。特に「ミニマリスト」を標榜しているブログを読んでいると、たまにそんな人を見かけます。

 

 大切なのは、「ミニマリズム」という考え方を“借りる”ことで、一度、自分の価値観をリセットし、そのうえで「本当に自分に必要なモノ」を探しだすことなんじゃないかしら。「ミニマリズム」の定義に縛られるのではなく、自分の理想とするライフスタイルを模索する作業。

 本書をはじめとする「ミニマリスト」論をまずは参考にしたうえで、次の段階では自分にとっての理想を──本書の表現を借りれば、“幸せ”を見つけ出すこと。「ミニマリズム」はあくまでツールとして、自分なりに自身の生活をアップデートしてこそ、その日常は豊かになるのではないかと思いました。

 

 

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