モノに「依存」せず、コトに「夢中」でいたい


 ポジティブな意味で使われる印象の少ない、「依存」という言葉。依存症は危ない。共依存は避けるべき。何事も、外部に頼りすぎるのは良くない──と。

 そんな「依存」について考えてみた。

 

「依存」の意味と字源と、字面から受ける印象

いそん依存

① 他のものにたよって成立・存在すること。
② 「 依属(いぞく) 」に同じ。

 

 辞書によれば、こんな意味。そういえば、普段はほとんど「いぞん」って発音しているけれど、辞書などを見ると大抵は「いそん」読みになっているのよね……。

 

① よる、もたれる(憑・倚)
② たすく(助)互に助け合ふ。
③ たよる(賴)たのむ(恃)
④ つく(附・就)したがふ(從・循)

 

 漢字辞典のほうで「依」の字を調べてみると、こんなん出ました。元来の使い方としては「よりかかる」「たのむ」といった、他者に何かを委ねるような意味合いが強かったようにも見える。こんなときに白川静氏の辞典があればいいんだけど……。

 これらを見ると、「依存」そして「依」という言葉が、決してネガティブな表現として使われてきたわけではないことがわかります。依頼、依拠、依然──思い浮かぶ熟語を鑑みても、それが特段に悪いものだとは思えない。

 他方では「憑依」なんて言葉もあるけれど、これもざっと調べてみた感じでは、どちらかと言えば古来の呪術的な要素の強いものであり、必ずしも悪霊に取り憑かれて云々、というものでもないっぽい。「祝い」と「呪い」の字源が同じで、いずれも元来は「まじない」と読んでいた、なんて話もありますしね。

 

 にも関わらず、どうして「依存」という単語からマイナスイメージを抱くのかと言えば、少なくとも自分の場合、やっぱり「依存症」や「共依存」という言葉の印象に引きずられているんじゃないかと思う。

 病気として診断されるほどの「依存」は避けるべきものだし、人間関係における「共依存」は物語において、しばしば破滅的な描かれ方をしている……というような。たまたま自分がそういうイメージを持っているだけかもしれないけれど。

 

物質的な「依存」と、精神的な「夢中」

 依存症にせよ、共依存にせよ、「依存」において “よりかかる” 、 “たよりにする” 対象として示されているのは、基本的に “モノ” か “ヒト” であるように見える。

 Wikipediaの「依存症」の項目*1を見るかぎりでも、症状の種類は「薬物」と「行為」に分類されている様子。アルコールや化学物質といったものか、もしくはギャンブルや買い物、ゲームといったものか。

 この分類を見ていておもしろいなー、と思ったのが、示されている例の中に「テレビ中毒」や「仕事中毒」といった「中毒」症状が並列して取り上げられている点。こちらは文字どおり “毒に中(あ)たる” 意味合いを持っており、人体に害を及ぼす行為と言って間違いない*2

 

 人間関係が主となる「共依存」についても同じく。自分という人格・価値をすべて他者へと依存してしまうのはたとえ好意的であっても推奨できるものではなく、たびたび「歪んだ愛情」として描かれる行為・関係性としてのイメージが強い。

 心理学・精神医学的な話はさっぱりなのであれこれ言える立場ではありませんが、極端に「好き好き大好き!他はいらない!」な人間模様を見ていると、どうもそれが良い関係性であるようには見えないんですよね……。こわい。

 

 その点、過去にどこかで「ほどほどにバランスを保ったうえでの『依存』はウェルカム」という話を聞いた覚えがあるのですが、そちらは納得できる。ある物事に取り組んだときの快楽を知っていれば、それをモチベーションとして積極的に行動できると思うので。

 その「バランスの取れた『依存』」を言い換えるなら、ありきたりではありますが「夢中」という表現になるのかなー、と思いました。その対象に完全に “よりかかる” ことはせず、お互いを極度に “たよりにする” のでもなく、一時的に “心を奪われた” 状態になること。

 

 目の前の “モノ” に頼りきって離さない「依存」じゃなくて、目の前の “コト” に心奪われその瞬間だけ熱中できる「夢中」でありたい。

 徹頭徹尾、単なる言葉遊びではありましたが、時間制限のある “夢の中” で楽しむだけ楽しんだら、あとは夢から覚めるだけですし。何かの物事に対して一心不乱に取り組める人をすごいとは思うけれど、それでもなお、覚めれば周囲を冷静に見ることのできる「夢中人」でありたいな、と。

 

 

その他「言葉の意味」を考える記事

*1:依存症 - Wikipedia

*2:だから、「依存」も悪いものという印象が強いのかしら?