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ぐるりみち。

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作品の“独創性”と“個性”はどこにある?〜守破離と肩書き

読書 読書-文章術

――才能とは、ながい期間にわたっての忍耐にほかならない。 

 

 この言葉を耳にしたことのある人は、結構いるんじゃないかしら。『女の一生』で有名なフランスの作家・モーパッサン*1『ピエールとジャン』の序文。とにかくやたら「序文がすげえ!」と、方方で引用されているイメージが強い。

 では、このあとにどのような文章が続くのかと言えば……恥ずかしながら、つい最近まで知らなかった。現在、ちまちまと読み進めている『高校生のための文章読本』で冒頭に登場し、「文章」を考える上では常に意識に上ってくる問いであるようにも思えたので、一部引用します。

 

 ――大事なことは、表現したいと思うものは何でも、じっくりと、十分な注意をはらって見つめ、まだだれからも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけ出すことである。なぜならわれわれは、周囲のものを眺める場合に、自分たち以前にだれかが考えたことを思い出しながらでなければ、自分たちの目を使わないように習慣づけられているからである。どんなに些細なもののなかにも、未知の部分が少しはあるものだ。それを見つけ出そうではないか。燃えている炎や、野原のなかの一本の木を描くにしても、その炎や木が、われわれの目には、もはや他のいかなる炎、いかなる木とも似ても似つかないものに見えてくるまで、じっとその前に立っていようではないか。

 

 このプロセスを踏むことで、人は「独創性」を身につけるのだ、と。これらの言説は、正確にはモーパッサンの師、フローベール*2の教えの要約であり、日本では「モーパッサンの一語説」として有名らしい。

 情報社会を通り過ぎたネット社会に生きている自分たちにとっては、そもそも「オリジナル」を探すのが困難だとも言える今。世界中の数多の作品や、先人の知恵、身近な人間からの模倣ではなく、完全なる「独創性」とはどこにあるのだろうか。

 

 

大切なことはすべて他人が教えてくれる

 外部から全く何の影響も受けていない、ゼロからイチを生み出す究極的な「オリジナル」は今や、ほぼ存在していないようにも思う。

 

 ヒトの歴史の積み重ねが長きにわたって継続し、その記録が積み上げられてきたことは言うに及ばず。そして現在、表面的な知識・情報だけであれば、どこにいながらにしても手元の情報端末で参照することができるという近未来感。“ググる”は最強なのだ。

 他方で、そういった見てくれの、文脈を鑑みない「情報」は薄っぺらいものとして、本質的な価値を持つものではないとする意見も往々にしてある。なんでもかんでも“ググれ”ば知ることができるので、自分自身の脳内には最小限の情報を保管するのみ。自分で考える機会が減った、とも。

 

 とは言え、それら単純な「知識」の他にも、ヒトは常に外部から情報を吸収し、自ずから無意識に学んでいることも間違いない。日本国内で育っていれば大多数は義務教育を受けてきたはずだし、その中では他者とのコミュニケーションによって多くの学びを得てきたはず。

 環境でヒトは変わる。人間は環境によって育てられる。環境が変われば、性格や友人も変わる。――などと言うように、ヒトは環境によって規定される生物だと言っても過言ではない。……ってか、人間に限った話でもないっすね。あらゆる生き物は、自然に適応して変化していく。ゆえに、環境に振り回されているだけでは、「独創性」は入手できない。

 

「独自性」は、「守破離」の先に存在する?

 冒頭の引用部分に戻って読みなおしてみると、この言説は、いわゆる「守破離」の考え方とも通ずる部分があるように感じる。

 

 稽古を積む課程、すなわち修行における順序を表す言葉で、独自の境地を拓く、道すじとして、師の流儀を習い、励み、他流をも学ぶことを重視した教えである。

 一般的には、「守」は、師についてその流儀を習い、その流儀を守って励むこと、「破」は、 師の流儀を極めた後に他流をも研究すること、「離」は、自己の研究を集大成し、独自の境地を拓いて一流を編み出すこととして説明される。

 武道における修行が人生に深く関わっている以上その修行には限りがない。すなわち限りなき修行に没入することを最終的には求めている言葉である。

『武道論十五講』不味堂出版/守破離

 

 冒頭の例えに当てはめると、例えば「燃えている炎」があるとする。これは、日本語を学んでいれば、「火」あるいは「炎」という既存の言葉を借りて表現することが可能だ。これを〈守〉とする。

 しかし、一言で「炎」と表しても、その燃え上がり方や色彩はさまざまだ。そこで他の語彙表現を知っていれば、別の言い回しで形容することができる。名詞なら「蒼炎」とか、形容詞を加えて「猛々しく燃え盛る炎」とか。自身の知識を参照し、適した表現を探し出す。これが〈破〉

 

 では〈離〉はどのようになるかと言えば、考え方はいろいろあるように思う。新しく独自の単語を考えるとか。他の「炎」と比較したときに、誰がどのように見ても「この炎のことだ」と認識できる表現を当てはめるとか。どないやねん。

 いずれにせよ、そのためには、“われわれの目には、もはや他のいかなる炎とも似ても似つかないものに見えてくるまで、じっとその前に立ってい”る必要があることは言うまでもない。己が目を見開き、徹底的に観察し、他との差異を明確にした上で、その「炎」独自の「個性」を、誰の目にも明らかであるような表現を選択しなければならない。

 

 「言葉」だとちょっとわかりづらいかもしれないけれど、名高い先人の作品を考えてみれば腑に落ちるのではないかしら。芸術家の代表作とその作風。小説家の文体と情景描写。俳人の言葉選びと音韻。

 「このモチーフと言えば、あの画家の作品でしょ」「あの人の語る“門”と言ったら、○○門を指していると考えて十中八九間違いない」といった外部評価もまた、一種の「独創性」であると思う。“古池や蛙飛び込む水の音”とくれば、的な。

 

表現者としての「独創性」と、肩書きを組み合わせた「個性」

 ところが一方で、文章にせよ絵にせよ音楽にせよ、ありとあらゆる技法や表現手法が過去すでに繰り返されてきたであろう分野においては、誰もが認める「独創性」を獲得するのはとんでもなく難しいようにも思える。何をやっても、「○○っぽい」と言われかねないので。

 

 そこで、ここ数年で話題となった作品や人物を考えてみると、表現としての「独創性」というよりは、過去にはなかった「複数の要素の組み合わせ」によって、一種の「個性」を打ち出して活躍している人が多いような印象がある。

 アンチヒーローvs天才名探偵。美少女×艦船×ゲーム。スーパーIT高校生。地方×プロブロガー。――みたいな。作品構造や、特定個人の表現としてはなじみ深いものであるものの、その要素の組み合わせ、肩書きのハイブリッドによって、世間から注目されるようになるイメージ。一時期、「美人すぎる○○」の類が話題になったように、メディア側も積極的にレッテルを貼りにかかっていた感じ。

 

 そういった既存の要素の組み合わせを「個性」として表現するのが悪いかと言うと、決してそんなことはないとも思う。というか、それら「個性」の組み合わせも極まれば、オンリーワンの「独創性」として評価されることもしばしばある。

 

 最近だと例えば、『魔法少女まどか☆マギカ』*3というアニメがあった。劇場版まで展開し、アニメファンに限らず多くの分野の著名人からも評されたことで、一部では「社会現象」とまで語られるに至ったキラーコンテンツ。

 いったい何がこの作品の魅力を作り出していたのかと考えると、必ずしも一言で「この点が独創的だったから!」と断言できるものでもないと思う。魔法少女×ダークファンタジー、耳に残る独特の言い回しと脚本、作品世界を彩るデザインと音楽、さらにキャラクターとのギャップと調和、シャフト特有のアニメーション演出などなど。多種多彩な「個性」が集まり、それらがうまく合わさったことで、一種の「独創性」を獲得するに至ったようにも見える。

 

 そのように考えると、「文章」や「イラスト」あるいは「音楽」といった、特定の分野で一個の「独創性」を発揮するのは、むちゃくちゃ困難なんじゃないかと考えざるを得ない。

 消費者側の目が肥えに肥えまくっている今、特定の分野で若いうちに「オリジナル」を思索し作り上げていくのは大変だ。それもあって、二次創作を導入にして一次創作を目指す人も増えているのかも……?

 

 でも一方では、それだけ多くの人がいろいろなものを見ている今だからこそ、ひとつの事物に関して、“じっくりと、十分な注意をはらって見つめ、まだだれからも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけ出す”ことで、他者の言葉に規定されない「独創性」を入手するに至れるのかもしれない。“好きこそものの”……はちょっと違うか。

 何はともあれ、忍耐なくして技術は身につかないし、〈守〉を重んじ過ぎるがあまり、いつまでもハウツー本ばかり読んでいても意味があるかは怪しい。そんな簡単にショートカットできるなら誰もが大成しているはずですしおすし。それよか、自分の目を使い観察し、考え、もっともっとたくさん書(描)いたほうが地力は鍛えられるのではないかしら。

 

もともと自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で十分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。

ショウペンハウエル著『読書について』岩波文庫

 

 後半、“外部からの視点”的な話になってしまいましたが、「モーパッサンの一語説」は本来、万人に評価される文章の美点や個人の人格を重んじる言説ではないようです。

 他人から教えられた言葉、外部から規定された表現でもってすべてを語ろうとするのではなく、自らの目で対象を観察し、既存の言葉に縛られない自分だけの視点を獲得すること。そうすることで新たな世界の発見、ないしは“自己の発見”となり、表現活動を楽しむことにもつながるのだ、と。

 

 文章・言葉・表現の多様性を理解し学んだうえで、その中からもっとも最適な「一語」を選択するための「一語説」。本書『高校生のための文章読本』ではこのように解説しつつ、「言葉」を考える前に真っ先に読むべきふさわしい文章として、この序説を引用していました。古今東西、多種多彩な文章が掲載されており、非常に刺激的な一冊です。

 

 

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