ネットの文章に人柄は出る?〜文字本位の人間として生きていく


 

 初めて「オフ会」に参加したのは、高校生のとき。

 「モバゲータウン」内の雑談グループで「実際に会ってみようぜ!」という話が出て、同年代の高校生&中学生で集まってみたのが最初だった。趣味が近しい人が多かったことも手伝って、キョドりながらも楽しかったことを覚えている。

 次は、大学生のとき。

 おなじみ「mixi」のニコニコ動画系コミュニティで、「これならコミュ障の僕でも参加できる!」……ように見えるイベントが開催され、おっかなびっくり参加してみた。そこで仲良くなった友人との付き合いも、はや5年。今でも月に1回くらいのペースで飲みに行っており、なんやかんやで続いている。

 

 そして現在。

 

 ブログを始めてからこの約1年半ほどの間、たびたび「お茶しません?」「飲みに行きましょう!」というお誘いをいただくこともあり、顔見知りのブロガーさんも結構増えたように思う。いまだに人見知りで口数も少なく、相手が楽しんでくれているのかいつも不安で仕方がないけれど、ありがたいお話です。

 モバゲー、mixi、ブログと、「ネットで知り合い、リアルで会う」という流れを踏んだ関係性は今や当たり前のもの。──そんな中で決まってあるのが、「あまりに想像どおりすぎてびっくりしました(笑)」「えー、マジっすかー?」というやり取り。

 これ、一種の「お約束」というか、「オフ会あるある」的な話かと思ってたんだけど、実際のところはどうなんでしょ?

 

日常会話の言い回しは、文章にも反映される?

 

 例えば先日、Twitterでこんなリプライをいただきました。こちらの三森さんとはリアルでのつながりはありませんが、たまーにお互いのブログでコメントし合うくらいの関係。……だけど、しっかりと文章の癖を見抜かれている様子。いやん。

 「文字」として見ると、これらに共通しているのはどれも「語尾」っぽくある点でしょうか。「〜かしら」「〜ですしおすし」「〜か(だ)にゃー」みたいな。「おすし」はネトゲー発のネットスラング*1ですね。

 

 で、果たして自分がリアルでもこれらの表現を口に出して使っているかどうかと言えば──まず、「おすし」はない。「ですし」まではあっても、「おすし」はついてこない。そんなのないよ、ありえない。

 ただ、改めて考えてみて、我ながら「うっはwwwきめえwwww」と思いますが、それ以外は結構……じゃなくて、ごく稀に使いますね、ええ。わかってますよ! ハタチを過ぎた成人男子が「にゃー」とかキモいって! でもしょうがないじゃん! 昔からの口癖なんだもの!

 「かしら」に関しては、時たま「そうかしら?」と相槌的に使っているんじゃないかと思う。どちらかと言えば、「だべ?」のほうがよく使っている印象だけれど。日常会話における語尾や言い回しに関しては、幼い頃に引越しが多かったこともあり、いくつかの方言のハイブリッドになっているんじゃないか説が。

 

 この「語尾」って個人的には便利だと思っていて、使い分けることで会話・文章の中で同じ表現が続くのを避けることができるんですよね。語彙力がない自分のような人間でも、何と言うか、「リズム感」を演出することができる。一番よく使うのは「ござる」でござる。

 このような「語尾」の表現が、リアルでの口癖からネット上の文章に伝染したのか、それとも逆なのかはわからない。多分、お互いに伝染し合っているんじゃないかな……。

 

〈ネット人格〉と〈リアル人格〉の統合から得られる承認欲求

 そういえばつい先日も、件のオフ会で知り合った友人たちの飲み会の場で言われたんですよ。「2ちゃんとかmixiとかTwitterとかいろんなオフ会に参加しまくってきたけど、お前ほどネットとリアルの話し方が一致してる人はいねーよ!」って。

 このように言われてどう思うかは人それぞれでしょうが、これ、僕はむちゃくちゃ嬉しかった。ネットで知り合い、リアルで関係を育んできた間柄の相手だったこともあるかもしれないけれど、なんだか、本名の〈自分〉と、ネット上の仮想人格であるはずの〈けいろー〉が同時に認められたような気がしたので。

 言い換えれば、〈書き言葉を話すけいろー〉と、〈生身の体を持って話す自分〉を同一視したうえで、「自分もよく知っている相手からそれを肯定してもらえたこと」が嬉しかったのだと思う。端から見れば「どんだけネットに依存してんだこいつは……」とドン引きされかねないですが。

 

 これはおそらく、自分が「声」に出して発せられる「褒め言葉」を素直に受け取れない人間であることが、一因としてあるように思う。その場かぎりの、口に出して一瞬で消える「肯定」に意味を感じられないというか、空虚な言葉として受け取ってしまいがち。我ながらクソみたいな考え方だと感じるけれど。

 でもだからと言って、ネット上の「賞賛」で承認欲求が満たされるかと言えば、そうでもないんですよね。顔も知らない「他人」が相手では、その言葉を額面通りに受け取るのは当然難しい。

 過去のオフ会経験から、画面の先に生身の人間がいることは知っていても、相手は「名無しさん」という不特定多数のうちの1人に過ぎない、という認識もある。昔からインターネットは大好きだけれど、釣りやデマだってあるし、すべてを盲目的に信じるのは恐ろしい。

 

 だから今回、「本名の〈自分〉とネットの〈けいろー〉という、同一人物ではあるものの、話し言葉と書き言葉ではどこか異なるネットとリアルの2つの人格を、その差異を知る立場から肯定してくれたこと」が、自分は嬉しかったのだと思う。

 文章が良いとか、為になるとかじゃなくて、「あ、けいろーだ」くらいの軽さで褒めてくれた感じ。なんか、すっごいしっくりきた。

 

目に見える文字として言語化することで己の心を知る

 カウンセリングか何かの方法論で、「口に出して話すことで発話者自らが自分の悩みを知ることにつながり、時には自己解決にまで至る」みたいな話ってあるじゃないですか。これはそのとおりだし、効果的なのだろうけれど、これって「書き言葉」にも当てはまると思うんですよ。

 考えてみれば、自分には昔からそんな傾向があった。友達に何かを相談するにしても、周囲の目が気になって話せないことなどもあり、長文メールでよくやり取りをしていたし、その過程で恋心に気づいて「あばばばばー!!」と悶絶したこともあった。

 「この前、こんなことがあったんだよー!」と、誰かに話したり聞いたりするのは楽しくもある。でもそれ以上に、日記を手書きしたり、SNSの日記機能に長文を書き殴ったり読んだりするのが好きだった。……だからと言って、それで文章力が鍛えられたかどうかは怪しいけれど。

 

 今、こうしてブログを書いているのも、純粋に「好きだから」とか、「誰かの為になったらいいなー」くらいの感覚。でも同時に、何よりも「自分の思考の整理」が目的になっているような気がしなくもない。こうやって思い浮かぶことを書き連ねつつ、考えが定まっていく感じ……ある。

 実際問題、この文章も最初は「ネットの書き言葉と、リアルの話し言葉って一致するの?」といった切り口で書き始めたはずが、いつの間にやら自分語りになってますしおすし。でもまあ個人ブログだし、そのくらいユルく、てけとーでもいいんじゃないかしら。

 

 今でも「人見知りを治せないもんかにゃー……」「コミュ障つらたん……」なんて考えることもあるけれど、「顔を合わせて話すのは苦手だけど、文章でならめいいっぱいお話できるよ!」なんて自分がいてもいいと思えるようになったので、対面コミュニケーションはほどほどにがんばっていきたい。

 ネットやSNSの普及で「生きづらくなった」という話もたびたび聞くものの、一方では、自分のようにコミュニケーションが取りやすくなった人もいるんじゃないかと思う。

 特に文章が優れているわけでなし、文脈もガタガタだったりするけれど、自分にとっての「日常会話」の手段のひとつとして、これからも「文字」を使ってキャッキャウフフしていきませう。

 

 

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