就活や人生という「椅子取りゲーム」を生き抜くために


 現在の自分は、基本的には1人でお仕事に励んでいるフリーの身。

 でもその一方で、仕事の打ち合わせで都心に召喚されたり、あるいはメールをいただいて喫茶店にお話をしに行ったりするようなこともたびたびある。人見知りでコミュ障なので、慣れない他人と顔を合わせるときは、常にドッキドキですが。恋だと錯覚しかねない。

 で、今日は他のブロガー(?)さんからのご紹介で自分に白羽の矢が立ったらしく、現役大学生のお兄さんとお話してきました。既に就職先を決めて、最近はブログを始めてめっちゃエンジョイしている様子。その話しぶりからも、すんごい楽しんで文章を書いている様子が伝わってきて、思わず前のめり気味に賛同しておりました。それな!!

 

 彼がたまたま自分の出身大学に在学中ということだったので、「せっかくだし大学で会いましょう!」と久しぶりに大学まで足を運んで、楽しいひと時を過ごした格好です。ほっこり。

 しかし他方では、その帰り際、所属していたサークルの部室に寄ってみると、同じく4年生の後輩ちゃんがエントリーシートに向かっている様子。「この質問、わけわかんねっすよー!」と悲鳴をあげつつも、必死にペンを動かしておりました。がんばれ、超がんばれ。

 そんな、数年前には自分も身をもって体験した「就活の明暗」を久しぶりに目にして、ちょいと考えたことをば。

 

「就職活動」という究極の椅子取りゲーム

 「人生」を何かに例える文句はさまざまあるけれど、そのひとつに「椅子取りゲーム」の喩えがある。

 学校や会社といった組織はもちろんのこと、個人プレイヤーにもプロ・アマという差があったり、権威的な「賞」の存在があったり。如何にしてそれらの限られた「枠」に入り込めるかが、その人の今後の「人生」を大きく左右する、という話。

 その意味で、「就職活動」は人生における究極の椅子取りゲームであるとも考えることができる。これから定年までの数十年間、生計を立てるため働くにあたって、どれだけその生活を充実したものにできるかどうかという大きな岐路。

 だからこそ、下手すれば勉学や卒論を後回しにしてまで就活に打ちこむし、自分に足りないものはなんぞや、そもそも自分とはなんぞや、なんて悩みもするし、 “お祈り” に心折られそうにもなる。そして、その全身全霊で取り組んだ結果が報われるかどうかは人事のみぞ知る。

 

 他方では、終身雇用制度が崩壊したと言われる現代、そして一般的な “シューカツ” 以外にも選択肢が豊富だとされている現在においては、卒業後の進路は暫定的なものでしかない、という意見も間違っていないとは思う。

 就活中にいくつもの内定を獲得したからといって、入社した企業をすぐに辞めてしまっていてもおかしくはない。逆に、就活浪人をして最終的にはハローワークで紹介された中小企業に入社したけれど、思いのほか居心地が良くて毎日が楽しい! ――なんて人がいても何ら不思議ではない。

 とは言っても、現在進行形で「内定」という限られた枠に滑りこむべく必死に取り組んでいる学生からは、目の前の「椅子」しか見えていない、なんてことも往々にしてあると思う。小学校時代、教室という小さな箱が自分たちの世界の全てだったように。

 いくら周囲から「あくまで暫定的なものだよ!」と言われても、就活サイトでは「友達はもう100社エントリーしています!」と煽るし、企業は「コミュニケーション能力!圧倒的成長!仲間と希望を掴み取れ!」と囃し立てるし、もう何を信じればいいことやら。だからこそ、絶望して最悪のケースに……といった問題も可視化されているのだと思う。

 

 就活が “究極の椅子取りゲーム” であるのは、決してそれがその後の人生を決定づけるものだからではない。

 「就活生はこちら!」と円状に並べられた椅子だけを見るように勧められ、実は他にもあちらこちらに散らばっている椅子を隠すようにして就活生を囲い込む、その構造に由来するのではないかしら。

 ……なんかこうして見ると、 “椅子取りゲーム” というよりは “バトル・ロワイヤル” 的でもあるような。

 

椅子がないなら、作ればいいじゃない

 まるで「新卒一括採用は悪だ!」と言わんばかりではありますが、個人的には、「新卒一括採用」というシステム全てが否定されるものではないとも考えています。

 これもまたよく言われていることだけど、通年採用にしてしまえば、いわゆる高学歴な人や高い技術を有している人の囲い込み、一極集中が起きかねない、と。昨年、ドワンゴ川上会長による「就活」への言説が話題になっていましたね。

 

 

 でも結局、入社してもまた「椅子取りゲーム」に参加せざるを得ないという、無限ループが存在するのも事実。昇進・昇給を目指してあくせくと働く日々。「椅子」を効率よく取りに行くには、自分の生活や時間を捧げてドーピングする必要もあったり。

 仕事に嫌気が差して退職してしまえば、ほとんど何のスキルも引き継げないまま、また “はじめから” 。働かなければ生活はできないし、稼ぐためにはどこかの企業に属して毎月のお給料をいただくのが常套手段。他と比較すれば、今なおまだ安定しているとも言えるようですし。

 

 けれど、そもそも「椅子取りゲーム」が苦手だって人も、中には少なからずいると思うんですよ。組織行動が苦手だとか、上下関係が嫌いだとか、何らかの障害を抱えているとか。

 そんな「無理ゲー」に挑むくらいなら、別のゲームに参加した方がマシ。そちらの方が難易度が高いかもしれないし、クリアできるかどうかは怪しいけれど、“無理”と言うほどではない。何よりプレイしていて楽しいのであれば、そういった選択は認められるべきだと思う。

 それこそ、今はフリーターとして生計を立てている人だって少なくないし、何らかのジャンルで独立したフリーランスになるのだって悪くはない。地方へ行けば若者の働き手を募集しているという話も聞くし、海外へも飛び出しやすくなった。まだ日本で消耗してるの?

 もちろん、勇んで飛び込んだ先で、また椅子取りゲームをプレイさせられることもあるかもしれない。でもそれは、場合によっては「参加しなくても良い」椅子取りなんじゃないかと思う。最低限、自分の場所だけ確保しておけばOK。より上のレイヤーでプレイするためのミニゲームとして、必要に応じて取り組めばいいものなのではないかしら。

 

港の市の秋の日は、
大人しい発狂。
私はその日人生に、
椅子を失くした。

中原中也『山羊の歌』より「港市の秋」*1

 

 その場に自分の “椅子” がないと感じたのなら、他の “椅子” を探しに行くのだって悪くはない。同じく、自分に適したサイズとデザインの “椅子” がないのなら、自ら作り出したって良い。

 全てが自由な人生ゲーム。ゲームバランスはちょっとアレかもしれないし、僕なんて顔面ハードモードだけど、楽しまなきゃ、ソンソン。そう、人生は神ゲーだ*2。一部課金制です。

 

 

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