『若者を殺し続けるブラック企業の構造』“働きすぎ”が当たり前の日本社会を整理する


 

川村遼平*1『若者を殺し続けるブラック企業の構造』を読みました。

本書は「働きすぎ」をキーワードとして、現在の日本社会で「当たり前」となっている働き方の構造を紐解いた内容。自分も日頃から疑問に感じていたこと、考えていたことをを、わかりやすく噛み砕いて説明してもらえたような読後感でした。

タイトルだけを見ると、いわゆる「ブラック企業」批判に終始した過激な本であるような印象を受けますが、メインテーマは「働きすぎ」。悪質なブラック企業を批判しつつも、安易なレッテル貼りはしないよう、冷静な論調で語られております。

問題となるのは、「働きすぎ」を生み出す日本社会と企業の構造。被害者が出てからの事後対策しか取れない現状をすぐに変えるのは難しいのでしょうが、「次の人」を出さないようにするため、日々活動している人の存在を知ることができたのは良かったです。

 

「終わらない就活」若者を使い潰す企業を個別の事例から

本書の前半部分では、実際に報道され、社会的にも問題となった若者の「過労死」のケースを取り上げています。具体的には、ウェザーニューズとワタミ。いずれも2008年、入社数ヶ月後に自ら命を絶った社員の労働環境と裁判の過程から、「働きすぎ」を強要する企業の実態を導き出している。

世間的には「ブラック企業」の代名詞として扱われているイメージも色濃いワタミ。創業者のぶっ飛び発言も各所でまとめられていることから、そちらに関しては聞き覚えのある話ばかりだと感じる人も多いかもしれません。

しかし一方で、ウェザーニューズの件に関しては興味深いものでした。事件に関する漠然とした知識は持っていたものの、その過程までは知らなかったので。

 

就職難を利用して、若者をいったん大量に採用し、その後ふるいにかける企業は、この会社に限らずITやアパレルといった業界の就職人気企業でよく見受けられる。この「終わらない就活」を何と表現したら一般の人に伝わるか悩んでいた頃、ウェザーニューズの「予選」という言葉を知り、とても「うまい」表現だと腑に落ちたのを覚えている。

 

こちらの報告記事で担当弁護士さんも話していますが、今やこのような企業は少なくないと思います。就職活動戦線を勝ち抜いて入社しても、それで終わりじゃない。自分の時間や身体、精神を犠牲にして働き続け、その企業に染まりきらなければ、社員としては認められない。

大量採用をしている大企業などは、特にその傾向が強いのではないでしょうか。辞めること、あるいは使い潰すことを前提として採用し、残った者も搾取し続ける格好。中には入社時点で優秀な人物を既に選定しており、彼らにはキャリアアップを約束し、その他大勢は使えなくなるまで搾り取るのみ、なんて企業もあります。どことは言いませんが。

 

若者は、むしろ、「他の誰でもいい仕事」に忙殺され、燃え尽きるまで働いているのだ。他の誰でもいいからこそ、短期間に使いつぶしても会社は反省しない。選抜競争は、それ自体が「他の誰かでいい」ことを示している。

 

下記引用部分のような話を聞くと胸糞が悪くなりますが、事実として、そのような経営者は少なからず存在するのでしょう。もちろん、それがすべての企業に当てはまるわけではないだろうし、本当に不運で業務中に亡くなったケースもあるはず。

本書では「ブラック企業」という言葉をたびたび取り上げてはいますが、それを世間的に問題視されている企業すべてに当てはめているわけではありません。問題視するべきは、あくまでブラック企業を生み出す社会の構造であり、個別の事例を普遍的に扱うことは避けています。前半部は、「導入」として代表的な事例を持ちだしているような印象を受けました。

 

遺族との和解から間もなく、ウェザーニューズで労働組合が結成された。組合員によれば、ウェザーニューズは事件が大きくなって以降、「彼のことは忘れるように」と緘口令を敷き、相変わらず「天気は眠らない」の一節を社の文化としてウェブサイトに掲げている。

渡邉美樹氏は、新人向けの社員研修の中で、「12時間の営業時間の内、食事をとるような店長は二流だ」と発言している。また、「無理という言葉は噓」、「本当に力不足であれば、力尽き前のめりに倒れる」という独自の理論の持ち主でもある。「365日24時間死ぬまで働け」という言葉を社の理念集に掲載しているように、同社では理由のいかんにかかわらず、休むことが犯罪であるかのように扱われる。

 

“働きすぎ”を打ち破るための「脱商品化」

「過労死」が「KAROSHI」として世界的にも認知され、国内でも「ブラック企業」という言葉が広まり、「働き方」に対する関心が高まっている現在。徐々に制度が整い、労働環境も改善されつつあるが、それもまだ局所的な変化に過ぎません。

企業の犠牲となった社員の遺族は裁判を続けているし、その他方では肉体や精神をすり減らしながら働き続けている人もいるし、病気などで自主退職に追い込まれていて泣き寝入りしている人も少なくないと言います。もちろん、「違法」であるはずのサービス残業は当たり前。

 

結論を先取りすれば、これまでの雇用慣行や、それに伴って形成された社会保障、教育、家族のあり方にいたるまで、社会の様々な領域が、〝働きすぎ〟を前提としつつ、同時にそれを支えるように構成されている。その中で私たちが当たり前のように繰り返している日常生活もまた、〝働きすぎ〟に依拠し、その慣行を再生産している。その結果、〝働きすぎ〟から解放された生活について思い描くことすら難しい。

 

著者は、現代の日本社会の生活環境における複数の要素が、人を当たり前に「働きすぎ」るように追い立てていると言います。

具体的な仕事内容も曖昧なまま取り決められる労使関係の「契約」に始まり、組織に属さなければろくに子育ても生活もできない会社に依拠した福利厚生。事実上、「働きすぎ」を公に認める仕組みとしての36協定・裁量労働制・固定残業代、先進各国と比べてもとても充分とは言えない退職者に対する補助制度、などなど。

他の制度や伝統がそうであるように、日本においては、数十年かけて「当たり前」となった慣習を作り変えることは難しい。著者自身も、個人の力ではせいぜい自分の身を守るのが精一杯だし、業界単位で競争のルールを変えるにしてもすぐには難しい、としています。

 

〝働きすぎ〟なくても生きていける社会は、「ブラック企業」を辞めても生活できる社会と言い換えるといくらか思考しやすくなるかもしれない。

転職市場がきちんと整備されていて、まともな職がすぐに見つからなくても失業保険で生活することができる。どこかの正社員にならなくても、フルタイム働けば生きていけるし、2人分の収入で子どもを育てることもできる。

こうした変化は、「脱商品化」と呼ばれている。資本主義社会である以上、たくさんの資産を持っていたりしない限り、誰かに雇われて働かなければならない。自分の労働力を労働市場で商品として高く売らなければいけない圧力にさらされているということだ。この圧力を弱める「脱商品化」を推進すること、これが福祉国家の意義として知られている。

 

そこで、ひとつの考え方として示しているのが「脱商品化」

お金を持っていなければ医者にもかかることも、教育を受けることもできない社会では、自らを “商品” として売り、激務と引き換えに高く買ってもらうことを目指さなくてはいけない。ゆえに強い競争の圧力がのしかかってくる。

それを避けるためのひとつの案として、生活にかかってくるコストを下げることを、ここでは挙げていました。「こうするべき!」というものではなく、一例として参考に、といった印象ではありますが、個人的に興味深かったので。この究極が、ベーシックインカム*2的なものなのかしら。

 

この『若者を殺し続けるブラック企業の構造』を読んで、とても好感の持てる本であるように感じたのは、そんな「べき論」を無闇に展開していなかったことにあるのかもしれない。

複数の事例を示し、それにまつわる問題点と構造を明らかにし、また複数の改善策を、それぞれ整理した上で説明・提示するような形。昨今の労働事情に関しては、強い論調で批判する本も散見されますが、その中で本書は “ブラック企業の構造” を整理するのに一役買っていると言えるのではないでしょうか。

 

本書では、こうした問題意識に基づいて日本の〝働きすぎ〟について検討してきた。最後に、この中にオリジナルなものはまったく無いということを付け加えて結びとしたい。

本書を執筆するにあたっては、先行研究から重要なものを選んでわかりやすく説得的になるよう整理することを心がけたし、同世代の若者の労働相談に乗ってきた立場だからこそ紹介できた話もあるかもしれない。だが、それでもやはり、ここにあるのは「元ネタ」のある話だ。

だから、この本を読んで少しでも興味を持ったなら、より含蓄のある著作に当たって、正確な理解を得てほしい。

 

 

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