紙とペンによる「手書きブログ」でセルフツッコミをしてみた


※「それ、ブログじゃなくね?」とツッコまれそうですが、「普段は、キーボードに手を添えてPC画面に向かってブログを書き始めるような気持ちで、ペンを持って紙に向かって書いてみた」くらいのイメージ。

 

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本文書き起こし

 さて、いま僕は、何を思ったかルーズリーフに向かっている。右手には、150円のボールペン。会社員時代から使っている、お気に入りだよ!なんたって、安いし。安さは正義。

 で、どうしてこんなことをしているか(紙に向かっているか)というと、ブログを書こうと思ったからだ。アナログで、「手書き」でブログは書けるのか、という実験記事。ぶっちゃけ、つらい。ムダに筆圧が強いので、早くも右の手首さんが休息を欲しておる。ちょっと待ってよ。そろそろ晩ごはんだから。

 

 ……と、ひとまとまりの文を書いた段階で、すでに読みづらいことに気づいた。自動で行間を調節してくれるデジタルと比べると、字の大きさ、字と字の間のスキマ、漢字・カナ・かなの使い分けが求められるイメージ。画数が少ない ひらがな・カタカナ の方が書くのは楽だけど、それはじぶんのなかのなにかがゆるさないのだ。あ、ゆるしてくれた。

 

 思い返してみれば、割と横並びの形で学び、成長してきた小学校時代において、「ノート」ははっきりと目に見える、その人の「個性」であったように思う。マス目いっぱいに字を書くかどうかは、その人の自信の表れでもあったように見えるし、マーカーの使い方ひとつとっても、ばらばらで面白い。

 

 あとは、アレだ。 余 白 の使い方。うまい人は色ボールペンで注釈を加えたり、フセンを貼ったり、かわいらしいイラストを描き込んだりしていたけれど。ボクはその点はダメダメでした。「紙がもったいない!」とやたらに詰めて書いていたので。そういえば、 小学生→中学生→高校生 と、進級するごとに文字が小さくなっていったような〜? 今度、見返してみよう。

 

 そういう意味では、今も昔も、「他人のノート」を読むのはすごく好き。ずうっと自分の字ばかりを読んでいると食傷気味になっちゃうんですよ。熱を出して学校を休んで、その日のノートを書いてもらって、家まで届けてもらうありがたさとかも。そこにね、仲の良い友だちからのコメントが書いてあったりするとね、ぼくはもう、うれしゅうてうれしゅうて……。今の小学校の“ノート事情”って、どうなってるんだろう。

 

 ところで、この記事(ノート?)。「手書きブログ」はすでに同名のサービスがあるから、何か別の良いネーミングはないものか……と考えて、

   「そうだ!アナログなブログ ⇒ アナブログ にしよう!」

 と微妙すぎる思いつきを持って、試しに検索してみたら、「女子アナブログ」が出てきて変な顔になった。おうふ。

 

 というわけで。特にオチも考えず、文字通り自由に“書いて”きて、そろそろルーズリーフのページが変わりそうなので、この辺で。これ、何字くらいになってるんじゃろうな?当時、よく書いていた 20×20 の原稿用紙の感覚を思い出すに……これで5枚分、2000字と見た!

 

下書き無しで自由気ままに手書きで文章を書いてみて

 うわあwwww いてえwwwww

 

 何がヤバいって、冷静になって読み返すと、何かヤバい。言語化できない。まだ自分の中にはこんな厨二だかなんだかよくわからない自意識が眠っていたのかと。この読後感には、「くぅ〜疲れましたw」*1と近しい恥ずかしさ&痛さを感じる。というか、この後付感想がまんまそれ。あかんこれ。

 以下、気になったことと思ったことをば。

 

① 文体:誰だお前

 だれだおまえは。いやいや、書いている最中はこんなもんかと思ってたけど、キーボード叩きながら書き起こしていて自分でツッコミましたよ。だれだおまえは。ちょっと普段の口調とキャラが違いませんかねえ……。

 考えられる理由としては、単純に「媒体」としての違いがあるのかな、と。ブログとTwitterでのキャラ――もとい文体――もとい“口調”が異なるように、それが「紙」の場合でも違っているのではないかしら。

 実際、ほぼ日手帳に年明けから書き続けている簡単な日記を見ると、今回の文体に割と近いんですよね。なんというか、自分に対して「語りかける」「ツッコむ」ような口調。やだやめてはずかしいから「いてえwwwww」とか笑わないで。いてえwwwww

 

② 構成:何言ってんだこいつ

 文脈、とも言う。明らかに途中、「ん?どうしてそんな話になった?」という、前の文とのつながりが感じられない箇所がございました。2箇所ほど。“ところで”などの接続詞で話題の転換を図っている部分を除いても、明確におかしいところががががが。

 普段書いているブログでも、わりかしその場の「ノリ」というか、思いつきをそのまま書き連ねるスタイルでキーボードを叩いておりますが、その中で「これは書いておきたい!」ってものが出てくるんですよね。「そうだ!こういう話もあるよ!」みたいな。

 ブログの場合は、それをとりあえずそのままアウトプットしたうえで、最後にかるーく読みなおして話がぶっ飛んでいないかを確認するので、「ん?」と違和感を持ったら、接続詞を追加したり、構成を変えたり、あるいは削除したりするのですが。「紙」ではそれができないゆえの、「文脈」のおかしさが出てきたのかな、と。

 

③ 文量:間違ってるじゃねーか!

 何が、“2000字と見た!”(ドヤ顔)だよ! その半分くらいしかない件。

 時間をかけて、結構な文量を書いたつもりが、まったくそんなことはなかった。よくよく考えれば、1行あたりのだいたいの文字数を数えずともわかるはずなのに、「時間かかったしこんなもん」という、さじ加減で当たるはずがなかった。

 いつもはブログで3,000〜4,000字くらいの記事を書いて、「なげぇよ!」とツッコまれている自分としては、この短さはびっくりでござる。そう考えると、短い記事を書くなら、もしや「手書き」も選択肢のひとつになるのかしら。

 キーボードの有用性を再発見したというお話でした。
 叩けば一瞬で文字が出るって、すげえ。

 

手書きの記録で「セルフツッコミ」を意識する

 思いつきでこのようなことをやってみましたが、そこで「手書き」の有用性を挙げるとすれば、単純に自分の思考や文章力の「粗」を探すことができる点と、もうひとつ、形として残る「セルフツッコミ」にあるのかな、と思いました。

 もちろん、1年前の自分の文章を読んで「え?どゆこと?」なんて思うこともあるので、自身の発した「意見」や「言葉」を振り返る機会はたびたびあります。ただ、それはどこか無味乾燥というか、“自分ごと”として感じづらいものなんですよね。

 自分が考えて書いた文章である以上、それが「自分の言葉」だということはわかる。文体の癖もあるし、記憶の片隅にはそれを“書いた”ときの印象が残っている。けれど、ひとたび自分の手を離れてデジタル化された「自分の言葉」はその時点で、ある意味で「他人の言葉」と等しいものとなっているんじゃないだろうか、と思った。

 

 同一の「フォント」として、誰の目にも読みやすい、読み慣れた「文字」にはなるけれど、そこにはナマの「自分」を感じづらいというか、なんというか。自分の言葉だけど、そうじゃない、コレジャナイ感。

 その点、年齢によって細部の変化はあれど、大きくは変わらない「自分の手書き文字」を読むと、「おお、過去の俺がこう申しておるぞ」としっくりくるのです。内容的に「本当にそんなこと考えてたの?」となることはあっても、「だれだおまえ」にはならない。自分の文字だから。

 

 ほとんど印象論になっちゃうけど、なんだかんだで「手書き」もバカにできないというか、やっぱりそこからしか得られない情報もあるんじゃないかなーと思ったのでありました。うーむ。なんか、キーボードを叩いている今も「手書き」の自分が乗り移ってる感じ。

 それと、もうひとつ。やっぱり、「読者」の目って大切。誰にも読まれることを想定しない、完全に自己完結しきった自分の「文章」って、素の自分がそのまんま文字として現出しているように見えて怖い。うわっ……私の自意識、痛すぎ……?

 

これ、使ってます。 

 

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