芸術の知識が皆無な人は「好き嫌い」で美術館を楽しもう


f:id:ornith:20141212224938p:plain
東京都美術館

先日、母親からもらったチケットで今週末まで開催している「ウフィツィ美術館展」(東京都美術館)に行ってきました。いやー、やっぱりいいっすね、美術館。

古今東西、多岐に渡る「芸術」に関する学は、全くと言っていいほど皆無に等しい僕。それでもなぜか昔から、美術館を訪れるのは好きでした。

有名無名を問わずに、ちょっと面白そうだな、と関心を持った企画展などへ気ままに足を運ぶ格好。当然、展示作品やアーティストに関する知識はないものの、それでも人並みには楽しんでおりました。今も、それは変わらず。

 

大学卒業後は、時間か金銭かいずれかの余裕がない日々が続いていたこともあり、しばらく足が遠のいてはいたのだけれど。

それでも、半年に1回以上は自然と訪れていたように思う。1年に1回以上美術館に行く人は3人に1人*14人に1人は10年以上行っていない*2などの調査結果もあるようだし、頻度としては人並み以上に訪れているみたい。行っても、ぜんっぜん分からないけどね!

では、どうしてそんな“学のない”僕が美術館・美術展へ行くのかと言えば……ということを、まとめてみました。

 

スポンサーリンク
 

 

美術館は「図書館」や「銭湯」のようなもの

いきなりこんなことを書くと、芸術に造詣が深い皆さんに怒られそう。いや、違うんです。絵画を始めとする、古今東西の「芸術」に内包された学術的あるいは歴史的価値、はたまた感性に訴えかける高尚さは存じているつもりではあります。……なんとなく。

一口に言えば、一種の「癒やしの空間」と申しましょうか。日々の労働で疲れた身体を癒やしリフレッシュするべく、週末に向かうスポットのひとつ。それが、「美術館」だったのです。

外と比べれば薄暗く調整された屋内を、ゆったりと歩いて行く。大きな音を立てるべからず、というちょっとした圧迫感を感じつつ、静けさの中をそろそろと。道すがらには荘厳な、あるいは訳の分からない芸術作品が展示されており、分からないなりにも小さな発見や気づきを得ながら思う存分に眺めることができる。うん、癒やしですね。

 

同様に週末の(自分にとっての)リフレッシュスポットとして挙げられるのが、「図書館」や「銭湯」。図書館もまた、静けさの中で自分の好きな本と時間を気にせず向き合うことのできる場所と言えますね。

「銭湯」はかなり方向性が違うように感じるかもしれませんが、僕の重視する要素は美術館・図書館と同様。それすなわち、“時間を気にせず、自由気ままに、ゆったりと”。性質は違えど、どこも等しく僕にとっての「癒やしの空間」であることに変わりはないのです。

もちろん、その人によって“癒やし”を得る場所は変わってくるでしょう。映画館かもしれないし、カラオケかもしれない。公園でジョギングをすることかもしれないし、チャリに乗って走り回ることかもしれない。リフレッシュの手段は、千差万別でござる。

自分にとってはそのうちのひとつが「美術館」であり、そこでは知識がなくとも自分なりに楽しむことができています。僕みたいに学生時代の美術の成績が“2”で感性がアンポンタンな人間だって、絵や彫刻を見て感じるところはあるんです!

 

「良い」「悪い」が分からないので「好き」「嫌い」で考える

というかむしろ、“感じる”ことしかできない。

芸術に限った話ではありませんが、ある物事の良し悪しを判断するには明確な「基準」が必要となってきます。その物事に関する知識がなければ、それが良いか悪いかは判断することができない。ゆえに、特定の分野に関する「知識」は重要と言えますね。

で、僕にはその知識が皆無でござる。「遠近法」だとか「シュルレアリスム」だとか「ルネサンス」だとか、有名な単語についてはなんとなく常識として知っていても詳しくは説明できません。だって、“なんとなく”しか知らないんだもん。それを知識と呼べるかは非常に怪しい。

今回訪れた「ウフィツィ美術館展」に関しても、御多分にもれず。「“メディチ家”ってあれっしょ?イタリアのどっかを牛耳っていた有力な一族だよね?世界史で覚えたし!(ドヤ顔)」みたいな。イタリアというか、フィレンツェっすね、はい。

“ウフィツィ”なる単語も同じく。絶対にどこかで聞いた、あるいは目にしたことがあるはず。それも、この半年以内に。どこだ……イタリア関連の……作品……?マンガ……? 最近のKindleのセール……? ──そうだ! ガンスリンガー・ガールだ! みたいな。

 

要するに、その分野に関する「知識」がなければ良し悪しが判断できないため、作品を批評するような楽しみ方はできないことになります。

「これは良いものだ!」と言っても、「え?どこが?」と説明を求められたら理路整然と解説することはできない。下手に知ったか振りをするくらいなら、無学なアホンダラとして自分なりの楽しみ方を見つければいいのです。

そのような門外漢でもあらゆる物事を楽しむことのできる唯一無二の判断基準が、「好き」か「嫌い」か。歴史や先人の研究によって体系化された外部の評価基準ではなく、自分の内から湧き出る純粋な感想。それを見て、触れて、ポジティブに感じるか、ネガティブに感じるか。

自分一人で楽しむ分には、ただそれだけでいいのでは。
僕は、そう考えています。

 

ぼーっと歩きながら、「僕の好きな作品ランキング」を描き出す 

とは言っても、理解不能で訳の分からないものを急に「楽しもう!」なんていうのも無茶苦茶かもしれない。

なのでまず「わからんものはわからん!」と開き直った上で、外部評価のことを頭から消し去る。歴史的価値だとか、有名無名だとか、技巧技法だとかはどうでもいいんです。ただ単に、自分が見てプラスに感じるかマイナスに感じるか、もしくは何も感じないか。それのみに集中する形。

ここからは、僕なりの美術館の楽しみ方を簡単にまとめてみます。独断と偏見を交えた好き勝手な考え方なので、お叱りを受けるかもしれないけれど。

 

1. 基本は順路通りに進む

何はともあれ、とりあえず順路通りに進みます。多くの美術館・美術展では“第◯章”のようにセクションが分けられていると思いますが、その流れに沿いつつ、合間合間の説明文には目を通す形で。

聞いたことのない単語があっても、最初から最後まで読めば文字情報はなんとなく把握できるはず。数少ない情報源なので、読んでおいて損はないかと。

 

2. 1作品につき、最低30秒は見るように心がける

作品の鑑賞について。僕の場合はとりあえず、ぼーっと30秒くらい眺めます。

「人がいっぱい描いてあるけど、みんな似たような顔してんな」とか、「なんかこの馬やたらと筋骨隆々だなー」とか、「このおねーさんエ口いわー」とか。適当でいいんです。適当で。

 

3. 気になる作品は細部まで観察&見方を変えてみる

そうやって、ほげーっとアホ面しながら作品を見て回っていると、中には一部「おっ?」と引っかかるものも出てくるのではないかしら。この「おっ?」がポイント。

一瞬でも引っかかったのであれば何かしら他とは異なる、気になる部分があったのでしょう。「このおっさん1人だけ、他の人とは別の物を持ってるぞ?」「人物の頭の後ろに共通して見える輪っかはなんだべ?」「このねーちゃん、他の絵より肉付きがいいぞ!」などなど。

さらに、もうちょっと見方を変えてみると、また別の発見があるかもしれません。例えば、作品から距離をとって離れた場所から見てみるなど。特定の人物だけ描き方が違っていたり、妙に目立つ色使いをしているポイントがあったり。

そんな感じで「おっ?」の先に何かしらの発見をしたり、「この作品、好きだ!」と確信を持てたのであれば、その内容をメモっておくのもおすすめ。

後で帰ってから調べることでその「おっ?」の理由を発見できたりして、軽い謎解きゲームみたいでおもしろいかも。そうすることで、自然と「知識」もついてくるようになるのではないかしら。

そこまでしなくとも、単純に気になった作品に丸をつけておく程度でもOK。ほら、入り口に置いてあるじゃないですか、展示作品リストの紙。あれを持っておいて、番号に◯をつけるだけです。それなら手軽で簡単だし。僕もこの前はそうしてました。

 

4. 「自分の好きな作品ランキング」を作る

そうして最後まで鑑賞し終えたら、さあチェックタイムでござる。

完全に自分の独断と偏見だけで選んだ、「好きな作品ランキング」を作ってみるのです。最後まで回ればメモせずとも、印象に残っている作品、記憶にも残らなかった作品がそれとなく区分されているはずなので、そこから順序付けしてみる形。

まあランキングを作ったからなんだって話ではあるのですが。それでも──語弊はあるかもしれませんが──、ある種の「ゲーム感覚」で作品鑑賞を楽しもうとしてみるのも、悪くはないのではないかしら。

 

外部の評価基準に頼らない、自分の「好き」は記憶に残る

こうして選んだ、自分の「好き」な作品。もちろん、「好き」と言っても一時的に気になった作品を選んだだけであって、しばらくすれば忘れてしまうもの。そう思うかもしれません。

ところがどっこい。意外とこれ、記憶に残ってるんですよ。人の名前を覚えられなければ、その日の朝食も一瞬で忘れてしまう僕が言うんだから、よっぽどっすよ。

何年か前、都内の美術館で開催されていた「ゴッホ展」を訪れたとき(確か没後120年のやつだったような……)。数多くの作品が展示されていて、それなりに「ほー」とか「へー」とか言いながら見て回っていた気がするけれど、やっぱりほとんど忘れてるんですよね。

それでも、中には記憶に残っているものもありまして。それは、有名な作品だとか企画展の見どころだとかそういうのではなく、自分が「おっ?」と感じた、印象的なものでした。

具体的には、弟テオとのやり取りの記録だったりとか(後で調べたら、一部の層の妄想を掻き立てるらしくカップリングもあるんですってね!わぁい!)、浮世絵との関係性だったりとか。

そうなんですよ。「ゴッホ展」のはずなのに、おそらくは関連作品として展示されていた全く別の日本人の浮世絵が印象に残ってるんですよ。それもこれも、自分が「おっ?」と気にしたばかりに。他のケースでは、レンブラント展で銅版に釘付けになっていた覚えが。

 

単純な話、気になって自ら意識的に行動して触れたものは、強い印象と共に記憶に残るという、それだけ。でもこれって、意外と大切なことなんじゃないかと思うんですよね。

多くの人が「素晴らしい!」と評する有名作だったり、周囲から勧められて足を運んでみたり。それらは全て自身の外部からもたらされる評価基準である以上、どうしてもある程度の補正がかかってしまう。「みんながそう言うなら、すごいんだろう」と。

実際にその通り、外部の評価基準の通りの印象が自分にも湧き上がってくればいいけれど、常にそうなるとは限らない。「思ったほどじゃなかった」「良さが理解できない」。そういった感想を持っても不思議ではありません。逆もまた然りですが。

だからこそ、あえてそのような「補正」を全部取っ払って、自分が「好き」か「嫌い」か!という2択で作品に触れるという方法も、ひとつの考え方・楽しみ方として悪くはないんじゃないかな、と自分では思っています。

もちろん、あらかじめ下調べをして行った方がより深く理解できて楽しいという人もいるでしょうし、知識があるのならその良し悪しを評価しようとするのも当然でござる。

でも一方では、知らない人には知らない人なりの楽しみ方があってもいいはず。誰もが同じように“作法”や“形式”に則って見て回るというのはあまり健全に見えないし、知識量の差や各々の視点によって、誰もが自分なりに楽しめる空間としての「美術館」があればいいと思うのです。

 

物事の前提や文脈、歴史や体系を知った上で楽しむのも一手。
反面、もっと単純明快な自分だけの視点で楽しむのもまた一興。

それすなわち、「好き」か「嫌い」か。
──ね、簡単でしょ?

 

 

関連記事