「ハンドルネーム」と「本名」は別人格?


 先日、参加したイベント「ちきりん×東浩紀『みんなもっと適当でいいんじゃね?──旅とネットと人生設計』」のなかで、ちきりんさんが次のような話をしておりました。

 

  • 「ちきりん」のキャラは、普段の自分と非常に近い。
  • 違いがあるとすれば、“やる気があるかないか”。
  • 普段は空想の世界に浸り一言も喋らない日もあるような、オタッキーな人間。

 

 普段の自分と、ブログの自分。
 現実生活の自分と、ウェブ上の自分。
 本名が指し示す自分と、ハンドルネームが指し示す自分。

 

 そのようなインターネット登場以降の「現実と仮想の差異」については、mixi時代かそれ以前から語られているような印象もあります。

 また他方で、僕がこのブログの更新を本格的に始めてから、そろそろ1年。つまり、この「けいろー」という人格が他のユーザーから認識されるようになってからも1年が経つかどうかという時期。そんななこともあって、改めて考えてみるのもいいかなーと思いまして。

 

 「本名」「匿名」、そこに境界線はあるのかしら。

 

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氏名を持つ、現実生活の〈ぼく〉のキャラクター

 ありきたりな名字と、珍しいわけでもない名前。読み方を間違われたことは一度もなく、ごくごく一般的な日本人名。

 そんな「本名」を持つ〈ぼく〉の性格は、「真面目」「几帳面」「消極的」「優柔不断」「我慢強い」「自己中心的」──といった自己評価。微妙にツッコミどころもあるけれど、だいたいそんな感じ。

 友人からの他者評価としては、「真面目」「几帳面」「他人に無関心」「決断力不足」「良くも悪くも青臭い」「なんちゃって熱血漢」──などなど。

 

 これらを統合すると、ぴったりな言葉がある。

 真面目系クズ」*1である。

 

 基本的に「我を忘れる」ことはなく、常に外面を気にして、うじうじとしているような人間。褒められることに慣れていないため、咄嗟に対応ができず、素直に受け取れない。

 家族、学校のクラス、部活動、サークル、職場、ネット仲間など、それぞれのグループでキャラが違う場合が多い。高校生くらいまでは、それが目に入ると「お前、そんなやつだったのか……」とよく言われていた。

 気分屋だけどポーカーフェイス。特技は作り笑い。感情を爆発させることはなく、冷めた目線で俯瞰しているだけで、でも好き勝手に生きている(ように見える)人たちに憧れている、根暗っ子。──そんな感じ。

 

顕名を使う、ウェブ上の〈僕〉のキャラクター

 一方、「けいろー」というハンドルネームを持つ、ウェブ上で活動している〈僕〉についてはどうだろう。まさに今、こうしてブログを書いている人格。

 活動範囲は、主にブログとTwitter。ブログでは「好き勝手」を信条に、ノンジャンルに思うことを日々書き連ねている。

 

 ブログでは、基本的に他者批判を目的とした記事は書いていない……はず。ネガティブな感情がゼロということはなく、プラスとマイナス、ちょうど良いバランスが今のところは保てているんじゃないかにゃー、という自己評価。ただし、自己顕示欲は強い。ご覧のように。

 とは言え、初期は会社に対する不満をぶーたれていたこともあるし、この記事を書いたときは明らかに感情的だったし、常に前向きな意識高い系ブログではないと思う。……むしろ、もうちょい意識の高さが欲しいまである。

 

 Twitterでは、割とあからさまに感情的。名指しの批判、特定人物に対する文句は控えめだけど(そもそも被害を被ったことがほぼないので)、「え? それどうなん?」的な長文連続ツッコミは、月イチかそれ以上のペースでやっていたはず。

 逆に、ポジティブ方向での「好き好きオーラ」は、Twitterで圧倒的に出ている。好きな作品やら音楽やら動画やらの話ではぎゃーぎゃー騒いでいるし、楽しいときは進んでツイートする形。超すなお。

 ウェブ上の〈僕〉の他者評価はほとんど聞いたことがないので、何とも言えませんが。断片的にひとつだけ記事を読んでもらって、「なんだこいつ」的なツッコミをいただくことはあるものの、それは「評価」というか……「感想」か「ツッコミ」?

 

リアルの〈ぼく〉と、ネットの〈僕〉

 便宜上〈ぼく〉〈僕〉で表記を分けていますが、そんな「リアルの人格」と「ネットの人格」に果たして違いはあるのかどうか、という話でございます(正確には、リアルでも時と場合で一人称が違う……なんてこともあるけれど、それはスルーで)

 冒頭のちきりんさんの場合は「非常に近い」と言いながら、意識して “ちきりん” というキャラをブログ上で育ててきたという話もあるので、そこには考えと戦略があってのことなのでしょう。

 

 一方で自分はと言うと、ブログで書いている「好き勝手」は、おそらくはリアルの〈ぼく〉からにじみ出た思考・感情であると思う。

 ブログを書くときに「ネットの『けいろー』ならこう考えるだろう……」なんて想像したり、設定したキャラに自分を置き換えて書いたりしているわけでもないので。

 ただ、それら感情・思考のすべてがリアルの〈ぼく〉から生まれ、そのまま言葉にして書いたものであるかと言うと──それは、明確に否定できる。ネット、あるいはブログという場で公開する以上、意識・無意識に関わらず、その場に合わせた内容に編集されている、編集しているんじゃないかと。

 

 文章や思考の「インターネット化」と言いますか。

 

 特に他人の書いた記事に言及する場合や、本や映画といった作品の感想を書く場合には、自然とその人や制作者を意識した内容になっているのではないかと。リアルでもそうだけど、「周囲の目」はやはり意識されてしまうもの。

 あとは細かいことだけれど、「文章」の面でも編集の手が入っている。癖というか、いつの間にかそうしていたのだけれど、ブログの文章の段落分けや、3行制限という、謎の決まり事を自ら課している格好。それによって言葉選びや表現が変わっていることは否めない。

 

 

 でも、結局はリアルの〈ぼく〉の延長線上に存在しているのが、ネットの環境や視線を気にして編集された〈僕〉こと、「けいろー」の文章であるとも言える。なので、 “別人格” と断言できるものではないように思えます。

 逆に、普段は日常で考えない、言えない、言わないようなことを、ブログでは文章に落としこんでいることも多い。そういう意味では、リアルの〈ぼく〉の考え方を明確に表現しているのは、こっちの〈僕〉のほうなのかもしれない。

 もちろん、それが自分の本質的なものであるとも思いません。先ほど書いたように、ネットの〈僕〉はパソコンのキーボードを介して、一呼吸おいた後に入力される「編集」された存在でもあるため、間違っても「けいろー」が “本当の自分” であるとは思わない。

 なんかゴチャゴチャしてきたけど、〈ぼく〉も〈僕〉も似た者同士ですよ、って感じかしら? うーむ。

 

リアルに出てきた「けいろー」は、何者?

 ところで、ずーっと引きこもっていたはずの〈僕〉こと「けいろー」が、最近はリアルで出しゃばっているんですよ。

 オフ会に呼ばれて勇んで参加したり、誘われてブロガーイベントに行ったり、トークイベントに登壇してガクブルしたり。

 

 多分、そこに出て行った「けいろー」は、リアルの〈ぼく〉に限りなく近い存在なんだろうけど、かと言って同一人物でもないと思うのです。

 いや、自分にとってはほぼ同じなんだけど、もともとネット上での付き合いがあったり、ブログを読んでいただいたりしていた相手方からすれば、そこで顔を合わせた自分は「けいろー」であり、着物を着た馬面アイコンの無職男のはずなんです。

 相手目線では、そこに普段の〈ぼく〉はいない。そこに立っているのは、なんか好き勝手にブログをやってて、たまに痛々しいことも書いている匿名ネットユーザーの、人間版。ブログというパッケージに対する、「生(なま)」のバージョン。

 

 言うなれば、自分は〈ぼく〉と〈僕〉の両者を合わせての「自分」だとわかっているけれど、相手はネット人格の〈僕〉だけを見て、そう認識している状態。つまり、めっさ不安定。同じものを見ているようで、どこかしら違う。なにこれこわい。

 そんな不安定さもあって、いつの間にか肩書に頼ってしまっているような気がする。曰く、「我は無職であり」「はてなから参上した」。わかりやすい肩書としての、「無職」や「はてなブロガー」に頼ってしまう格好。あとは「平成生まれ」とか。

 

 そう考えると、自分を担保する「肩書」はやっぱり便利。自分を端的に表す記号でありながら、相手と自分の認識を限りなく近づけてくれるもの。〈ぼく〉とか〈僕〉を飛び越えて、「同じもの」にしてしまうので。

 ただ、「肩書」にばかり縛られてしまうのは、それはそれで問題があるようにも感じる。肩書がもとい良くも悪くも「レッテル」となり、それだけで何でもかんでも褒め称えたり、批判したり、といった状況に陥りかねない。やっぱりバランスは大切です。

 実際問題として、繰り返し「無職だー」「はてなだー」と声に出していると、それが自分のアイデンティティなんじゃないかと感じてきて、どうも「そうであるように」演じてしまっているように自分でも思うことがある。

 

 無職っぽく、はてなっぽく振る舞ってしまう感じ。
 いや、 “はてなっぽく” ってなんだろう……。

 

 ──収まりがつかなくなってきたので、この辺りで。

 

 考えるだけ意味のないことなのかもしれない。でも、本名か匿名かに関係なく、ネット上に投影している「自分」だと思っている「誰か」が、インターネットそのものや媒体・サービスによる環境の影響を受けていることは否めない。そう思う。

 そこで、リアルの自分との差異を比較することによって、自分がネットによってどのように歪められているか、あるいは、素直に感情が出せているかといったことを見直してみるのは、決して悪くないことなのではないかしら。

 

 

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