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ぐるりみち。

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川上量生『ルールを変える思考法』曖昧な“コンテンツ”にこそ価値がある?

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 最近になって、「“コンテンツ”って、なんぞ?」ということを、改めて考えるような機会が増えた。前々から、小説やコミック、映画やゲームといった、広い意味での“物語作品”について、ある程度の関心は持っていたけれど、その気持ちが高まっているような。

 

 視点をネットに移せば、おもしろFLASHを見て爆笑していた中学時代から、mixiなどのSNSを使ったコミュニケーションを経て、YouTubeやニコニコ動画、pixivなどの文化圏に触れてきた。

 そこにあるコンテンツの大半はユーザーの作品であり、それゆえ、雑多でごちゃごちゃでカオスなものが多い。現実世界で型通りにパッケージされている“作品”とはどこか異なり、自分をわくわくさせてくれる何か、同様の仲間を集めて離さない魅力のようなものがあったように思う。

 

 そして、ここ数ヶ月。メディアで実際にそれらを発信している人と話す機会があったり、自身もブログで文章を書き連ねるような習慣がついたりと、“コンテンツ”がますます身近になってきたように感じる。でも結局、それが何なのか、いまだに分からない。

 そんなこともあって、過去に読んだ本を一冊、読み返してみました。ドワンゴ会長の川上量生さんの著作、『ルールを変える思考法』。“コンテンツ”に関する言説の中では、特に強く印象に残っているものであったので。

 

 はてさて、“コンテンツ”って、なんぞ?

 

 

「コンテンツとは、わかりそうで、わからないものである」

独自性を保つ上では、明快で他社が追随しやすい差別化を行うよりも、何が差別化なのか、ちょっと考えただけでは理解できないものであり続けることが大切だというのが僕の考えです。

理解できそうで理解できないぎりぎりの境界線上に答えがあるというのが僕の結論です。「きちんと説明できないんだけど、正しいと自分が思うこと」──これを人間は「感性」という言葉で表現してきたのではないでしょうか。

いくら難しくても説明ができる以上は、ユーザーの側からやがてそのパターンを見透かされます。そして、そのようなものを提供し続けていれば、そのカテゴリ全体が陳腐化してしまう。だからこそ、「説明できないもの」が求められてくるのです。

「コンテンツとは、わかりそうで、わからないものである」

 

 これが、川上さんの語る“コンテンツ”の定義となっております。

 

 わかりそうで、わからない。
 それまでと同じようで、何かが違う。
 説明できなくはないけれど、全てを語るのは難しい。

 

 「ツッコミどころがある」と言い換えてもいいでしょうか。全くの新しいものである必要はなく、それまでの定義やジャンル分けによってある程度は説明が可能。だけど、何かしら“よくわからないもの”が含まれている存在。グレー。中途半端。曖昧模糊。

 この、わかりそうで、わからない”ようなコンテンツとして何があるだろう、と考えてみて、パッと思い浮かんだのが、『新世紀エヴァンゲリオン*1』でした。

 

 「いや、あんなの全部がわけわからんべ」という人もいるかもしれませんが、大まかな“わかる”部分については、視聴者の多くが共有していると思うのです。

 広義の“ロボットもの”であることや、“使徒”という敵の存在。パイロット3人は特別な存在であるが、各々が悩みや問題意識、背景を抱えている。ロボにも秘密があり、黒幕のような組織もいるらしい。

 

 物語の大筋や、登場人物の関係性などは“わかる”けれど、他方で、その背景にある諸々には、よく“わからない”ものが多い。使徒ってなんやねん。なんでいろんなとこから来るんじゃい。大人たちは何がしたいねん。

 社会現象にまでなったとされる『エヴァ』は、この十数年、繰り返し繰り返し様々な人によって語られ、数多くの“解説本”が出版されたのにも関わらず、それでもなお、その全てを説明できているとは言い難い。もちろん、「新劇場版」が出てきたことにもよるけれど。

 

 そんな、わかりそうで、わからないもの”には、人を惹きつける魅力がある。全てが意味不明!ならスルーしてもおかしくはないけれど、微妙にわかって、微妙に理解できないものに関しては、知りたくなってしまうもの。

 この点について、川上さんは「人間の情報処理」の観点から説明されていますが、そこは割愛、ということで。一口に言えば、「人間の本能だもんね」、的な。こちらのインタビュー記事にも書かれているので、良かったらそちらを参照してください。

 

 わかるにはわかるんだけど、中途半端にわからない部分があると、語りたくなっちゃうのよね。うん、わかる。

 

コンテンツが受け手にもたらすもの

 身近なところで考えてみれば、仕事にしても、たいていの人は「お金を得るためには働くのが当然だ」と思ってやっているはずです。しかし実際は、働きたくないという人もいるはずだし、そんな苦労をしてまでお金は欲しくないと思っている人もいるかもしれない。それでも、社会の仕組みやルールがあるため、人間の行動様式として、それを「やらなければいけない」と思いながら惰性で行動しているといえるのです。

 それでも、ある日、ある瞬間、自分の本当にやりたいことや自分の可能性というものに、ふと気がつくこともあるでしょう。

 「ああ、僕が望んでいたのはこれだったんだ」

 そんな気づきを与えてくれる上で重要な役割を果たしてくれるのがコンテンツなのではないかと僕は考えています。  そのようにして日常的なギャップに気づくことで、行動や人生が大きく変わることがあるはずです。

先に「コンテンツとは、わかりそうで、わからないものである」と定義しましたが、「コンテンツの価値は、誰かの人生を変えられるかどうかで決められる」とも思います。

 コンテンツの価値を決めるのは、送り手側ではなく受け手側です。

 感動は押しつけられるものではありません。そしてまた、人を感動させたり、共感を得られたりするものは、基本的には「その時代において稀少なもの」であるはずです。

 

 一口に“コンテンツ”と言っても様々。プロが作るもの、素人が作るもの、お金をかけて集団で作るもの、個人で全てを完成させるものといった、送り手側の事情だけでなく、受け手側の反応も十人十色。誰もが価値を認める普遍的な“コンテンツ”は、存在しないのかもしれない。

 そのように考えると、送り手・受け手に関係なく、“コンテンツ”に対する考え方が変わってくるのではないかと思います。

 

 送り手からすれば、やはりそれを「誰に」届けたいのか、そして、「何を」伝えたいのか、といったことが重要となってくるはず。

 本書の内容としては、経営者やメディアといった大きな視点からの考え方であるような印象を受けますが、個人のコンテンツメーカーに関しても、それは同様かと。たとえ一個人の素人のコンテンツだとしても、人を動かす文章や作品といったものは存在します。事実、僕はそれに動かされた経験があります。

 

 他方、受け手からすれば、自分にとっては無価値なコンテンツがあったとしても、それを全否定することはできない。

 好き嫌いの表明くらいなら問題ないと思う。けれど、嫌いだからと言って、誰かが好きだ、素晴らしいと語っているものに対して、クソだ、無価値だ、と貶める理由にはなりません。批判するのなら、相応の下調べと理論をもって行うべきかと。

 

 コンテンツは自分一人でも楽しむことのできるものでありながら、他者と共有し、コミュニケーションのきっかけともなるもの。それゆえに、「好き」の押し付けや「嫌い」の跳ね除けによって、あちらこちらで衝突が起こるようなことも多分にあります。

 特に最近は、コミュニケーションを前提としたコンテンツ消費が目立っているような印象が強い。消費の速度が上がり、表面的な感覚で好き嫌いを判断し、そのときだけ交流して盛り上がって、あっという間に鎮火してしまうような。

 

 僕の勝手な印象に過ぎませんし、それが悪いことであるとも一概には言えないのですが。それでも一度、「“コンテンツ”って、なんぞ?」ということを考えて欲しいと思うのは、自分勝手な押し付け、なのかな。純粋に好きなものを好き、と語り合えれば、それでいいのにね。

  

 

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